第一節 文永の役

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 元(蒙古)が日本征服の野望を抱いたのは古くからのことであり、文永三年(一二六六)以来、四回にわたって、わが国への使節が訪れているが要領を得ないままに放置されていた。同八年第五回目の使節来訪によって、いよいよ多年の野望を暴露して実力行使の意図あることを察知することができた。
 そのもたらした国書は、わが国を弱小国家としてあなどり、その文面はまさに非礼をきわめた恫愒的な態度であった。
 上天の眷命(けんめい)せる大蒙古国の皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟ふに、古より小国の君、境土相接すれば尚講信修睦に務む。況んや我が祖宗、天の明命を受け区夏を奄有(えんゆう)す。遐(はる)かなる方の異域にして威を畏れ、徳を懐しむ者、数を悉(つく)すべからず。(中略)高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し開国以来亦時に中国に通ずるも、朕の躬(み)に至って一乗の使を以て和好を通ずること無し。尚、王の国これを知ること未だ審(つまび)らかならざるを恐る。故に特に使を遺はし、書を持して朕の志を布告せしむ。冀(こいねがわ)くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは豈一家の理ならむ哉。兵を用ふるに至るは夫れ孰れか好む所ぞ。王其れ之を図れ。不宣。
     至元三年八月 日(文永三年)

(東大寺尊勝院蔵 蒙古国牒状)

 このとき、これとは別にすでに彼らは屈服して属国扱いをされている高麗からもその国書をもたらし、蒙古との修交をすすめている。
高麗、既に一家と為る。貴国、実に隣境たるを以って、かつて信使を遣りて好みを修めしむ、而るに貴国遂に答うる所あらず。故にまた特使をして促さしむ。貴国、答使を発せば、之とともに来れ。仁に親しみ、隣に善くするは国の美事とす。若し或は猶予せば、兵を用ふるに至らん。敢て好む所に非ず。王、其れ審かに之れを図れ。

 と、ときの執権時宗は激怒してあえて答えず、北九州、中国方面の戦備を整えさせて待機することになったのも当然であり、まさに黙視し難い蒙古の態度というべきである。
 かくて同十一年(一二七四)正月、亀山天皇は位を後宇多天皇に譲って、もっぱら敵国降伏、国家安康を祈られたが、その年十月、蒙古と高麗の連合軍二万五千六百の兵が九百隻の軍船に分乗して壱岐、対馬を急襲し、壱岐守護代平経高と対馬守護代宗助国ら戦死して両島はほとんど全滅し、残虐を重ねて後さらに肥前に押しよせ、これを迎えた松浦党もまた大敗した。
 十月十九日、敵勢は博多に殺到して上陸を始めたが、わが方は全九州の兵十万二千人が馳せ参じ、いよいよ水陸に一大血戦が展開、彼らの集団戦法と火薬兵器によって初戦は苦しめられたが、やがて各個撃破の肉弾戦法が彼らの戦意を喪失せしめ、形勢はしだいに逆転した。しかもその夜、にわかに大暴風雨が起って敵船の損害は甚だしく、戦死者一万三千五百人、船も兵もその半数を失って嵐の海を右往左往しながら逃げ去った。これわが先人たちが誇った神風と称するもので、これより後、神国日本への信念と誇りが不抜のものとなった。
 翌文永十二年(一二七五)は改元されて建治元年となるこの年二月また蒙古は杜世忠らの使者を送り四月筑前太宰府に上陸したが、彼らは八月となって鎌倉に護送され、九月時宗は厳命を下して断固この使者五人を死罪に処し、わが国の決意と鎌倉武士の意気を示し、十一月北条実政を九州探題に任じて彼らの再来に備えた。