弘安二年(一二七九)六月、またも元使が送りこまれたが、時宗は命じて筑前博多においてこれを斬らせて決意を示し十月関東の兵を九州に派し、翌三年十月には西海道・四国の兵をして博多を守らせ、山陽山陰の兵をもって京都を固め、さらに東山、北陸の兵を越前敦賀に送って決戦の備えはようやく成った。
かくて、弘安四年(一二八一)正月、蒙古十万の大軍が朝鮮半島の南端に集結、三千五百の兵船に分乗し、対馬、壱岐に上陸してまたあらゆる乱暴を働らき、六月いよいよ筑前の海上にその姿を表わした。
復仇の妄念に燃えた十万の大兵は海に陸に勢いすさまじくさすがの菊地・原田・松浦の党などの九州勢も多くの戦傷者を出して危急を告げたが、さらに屈する色なく、河野通有の如き勇士が小船をあやつり敵船に乗り移って敵兵をなぎ倒すという決死の振舞に出たため、彼らの戦意はようやく衰えを見せ初めて暗い七月晦日の夜が訪れた。
かくてその夜半から八月一日の黎明にかけてまたもや大暴風が起り、敵船はめちゃくちゃになって正に衝突転覆し、その夜のうちにほとんど全滅、明け離れた海上を眺めた人々は数少ない敵船の傷ついた姿に呆然たらざるを得なかった。
ここにおいて十万の敵兵はほとんど水屑となり、うち約三万の兵が博多の浦にただようていたが、わが軍勢は、これを包囲して一人も残らず打殺し、その中から三人の兵を生捕り「このことを蒙古の王に語り聞かせよ」と諭して祖国に帰らせたが、これが世に伝へられる生きて帰るもの僅かに三人といわれるゆえんである。(実際には二千余人を捕虜とし、生きのび逃げ帰ったものは三万人にも足らなかったといわれている。)
頃は旧暦七・八月のことであるから、わが国における二百十日、同二十日と呼ばれる荒日の前後であるにしても、二度にわたり大風が吹きまくって、未曽有の国難を救うたという事実には、これを神風というのも当然であるが、隣国にあって、しかも先進大国をもって任ずる蒙古が、日本討伐を豪語しながら、この天災襲来の最悪の気節を選んだことは、「愚なるかな蒙古」と、嘲笑せざるを得ないのである。
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なおこのとき、遠征関東軍の大将として時宗の命を受けたのは、宇都宮八代城主貞綱であり、十九才の青年武将として西国の兵を併せて戦場に赴くことになったが、途中、備後にあって蒙古全滅の報に接した。
しかし進んで九州に渡り、今後のことに備えて防禦の陣構えなどを果して後に京都に引き揚げ、しばらくして鎌倉に帰った。
現在、宇都宮氏代々の墓がある芳賀郡益子の地蔵院に接して綱神社があり、その鳥居前に高さ六米、幅二米ほどの「宇都宮貞綱朝臣之碑記」なる堂々たる碑石が建っている。