第一章 後醍醐天皇と足利尊氏

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 足利尊氏が後醍醐天皇に叛し、戦い破れて後に西に去って再起をはかる間に光厳上皇の院宣を請うて賊名を避けることに成功し、延元元年(一三三六)五月、兵を西国に募って大挙東上し、備後の福山城付近にあった新田義貞、脇屋義助らは敵の優勢を知って兵庫に退き、急使をもってこれを京都に報じたが、天皇は義貞らを救うために、楠木正成に対し救援を勅した。
 よって正成は直ちに京都を出て、途中桜井の駅にあってその子正行を諭して東国河内に帰らしめ、進んで兵庫の湊川にあって足利勢の先鋒直義の軍と決戦の末自刃の止むなきに至り、義貞は敗れて京都に退いたため、尊氏が大挙して京都に進み、後醍醐天皇は神器を奉じて、また比叡山に移られた。
 かくて尊氏は八幡に陣し、六月弟直義は京都に乱入して行在所となった叡山の延暦寺を攻め、天皇方は破れて、六条忠顕らが戦死したが、尊氏は光厳上皇を奉じて東寺に陣し、しばしばの戦いの中にあって名和長年も戦死、行在所たる叡山も糧食つきて戦意を失うというありさまで、天皇は止むなく尊氏の請願を認め一応の和睦が成って京都に帰られると、たちまち花山院に幽閉されて持明院統の光明院が皇位につき、天皇は太上天皇と呼ばれて天皇の皇子成良親王を立てて太子とした。
 しかし天皇はあくまで素志をくつがえすことなく、やがて十二月二十一日の夜、ひそかに花山院を脱出して吉野にかくれ、楠正行や僧兵たちに護られて、しだいに勢威をとりもどされたが、これより吉野を南朝、京都を北朝と呼んで、厳密な意味での南北朝時代はここに端を発したことになるが、時代史としての区分からすれば後醍醐天皇の即位をその出発と見るのが妥当のようである。
 尊氏は光厳上皇を八幡の陣中に迎えて天皇と仰いだが、その後、上皇の弟豊仁親王を立てて天皇と称した。これが光明院であり、しばらくの間、表面は光厳上皇の院政であるが実権は尊氏の手に握られ、これが後世において北朝とよばれる起源となった。

南北両朝の皇位