佐野市鐙塚の地に護良親王の遺跡と伝えられる所がある。昔は根光寺の境内であったが建武元年(一三三四)十一月、親王が南、春日の二人の女官にかしづかれ、阿曽沼兼綱、村上彦四郎、関根刑部、小野寺八郎、富岡将監ら家臣十数人に守られて当地に下向し根光寺内にかくれていたと伝えられる。
しかし間もなく足利直義の知るところとなって鎌倉に幽閉され、同二年七月渕辺義博によって殺されたとき、南の局(つぼね)は阿曽沼、関根両士に命じて御首を奪わせ、二人は根光寺に帰って首と髪とを別々に葬った。付近にある「阿武塚」が首塚であり、浅沼八幡宮の境内には髪を埋めて祠を建て、後世これを「安蘇宮」また「大塔の宮」と呼んでいる。
その後南の局は尼となって南光尼と号し、同三年二月親王の御子を生んで、ひそかに阿曽沼兼綱の子と称させた。
正平五年(一三五〇)二月、その御子が十四の時、阿曽沼らが相州藤沢の遊行寺に連れて行き、上人の弟子とした。
これがやがて成人して遊行寺第十二代の名僧尊観となったと伝えられ、御母南光尼は弘和二年(一三八二)根光寺にあって入寂されたといい、南の局も阿曽沼、関根、小野寺、富岡らもこの地方に実在した武将たちであり特に村上彦四郎の名の出ていることには興味がひかれる。これより先護良親王が吉野にあってすでに危急となった時、親王の装束を取ってわが身につけ、われ親王なりと叫んで腹かき切って、はらわたを引き出し、賊兵に投げつけて、その間に親王の脱出がなったという忠臣村上義光こそ彼であり、(この村上がこの地に現われていることは奇怪であって、護良親王の吉野合戦は元弘二年(一三三二)、根光寺潜居は建武元年(一三三四)であるから、ここに義光の亡霊が現われたことになるからであるが、あえて伝えられるままを述べた。)伝えられるこれらの武将たちは、その後も南朝のために働らいている。
なお、富岡将監は佐野の東方富岡の富岡三郎重忠の子であり、南の局はこの重忠の女と伝えられ、弘和二年(一三八二)この地にあって六十六才で入寂といわれているから、親王が当地方に潜行された建武元年のころは芳紀まさに十八・九才ということになる。
またこの富岡にある観音山の堂内には、親王の肌身につけておられた高さ二寸二分(約六・七センチメートル)の守り本尊が伝えられている。
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南北朝時代についての大日本史は主として太平記の所説によったようで、親王は土牢にあって、殺害され、その首を捨てられたと記しているが、この殺害説を否定して仙台石巻に伝えられる親王遺跡説を支持し、親王は鎌倉にあって殺されず、渕辺義村と共に鎌倉の土牢をのがれ出て、義博のはからいで石巻に落ちのびて後、間もなく崩ぜられた。石巻市湊大門埼の皇子宮に祀られ、社殿の後の円塚がその陸墓といわれ、付近に御所入、御所裏御隠などの地名があるという有力な説がある。
こうなると渕辺義博は許しがたい大悪人ではなくてむしろ忠臣という説を支持せねばならず、これが真相ならば六百数十年にわたり宙に迷っているであろう義博の霊を救わねばならないであろう。