義貞は元弘三年(一三三三)五月八日、上野国新田郡生品明神(いくしなみょうじん)の社前にあって北条氏討伐の義旗をひるがえし、南下して鎌倉に迫り、小手差原、分倍河原の緒戦において北条軍を撃破し、鎌倉に攻め入ってまた大勝し、北条高時を中心に一族二百八十三人、家臣を併せて八百七十余人の総勢を全滅させた。
頼朝が鎌倉に築城して以来凡そ百五十年、源氏は三代にして亡び、実権を握った北条氏が九代凡そ百十年にして、ここに鎌倉幕府は瓦解した。まさに義貞の大功というべきであろう。
その後の義貞の戦歴については省くが、延元三年(一三三六)義貞は北国を征して、越後、越中、加賀を従えたが、足利高経の大軍と藤島城下に戦って破れ、身動きもできない泥田の中にあって無念にも敵の流れ矢を眉間に受けて起てず。自ら首かき切って、その上にうつ伏せになって悲壮な討死を遂げたといわれている。
やがて義貞の死骸は足利方の越中国住人氏家重国によって発見され、重国は見事な武装姿に驚き、その首を掘り出し、鎧、大刀などをはぎ取って本陣に運び大将高経の見参にいれたところ、かねて義貞を知っていた高経は首を洗わせて大将義貞であることを確かめ、さらに二振の大刀が源氏累代の重宝である鬼切、鬼丸の名刀であることを知って驚き、重国をして手厚くその首を京都に運ばせ、別に命じて遺体を往生院に埋葬させた。後に称念寺に改葬されて藤島神社に祀られた。
かくて義貞の首は都大路の獄門台にさらされたが、奇功を秦した重国は重く賞され、美濃国石津郡の高徳その他の地頭職に任ぜられ、子孫は長くこの地にあって繁栄した。
ところが、この氏家重国なるものは下野氏家城主を祖とする宇都宮氏の同族であり、宇都宮三代朝綱の三男公頼を祖とする。
氏家氏略系
重定は入道して道誠と号し正安年間(一二九九~一三〇二)越中国に移住したが、その子が実にこの重国であったのである。