義貞の部将として勇剛をもって鳴った武茂泰藤こそ、その奇怪な盗人であり、当時、三河国碧海郡和田の城主である。
主君義貞の首を奪い取った彼は、ひそかに和田に帰り、主君の郷国上野に埋葬しょうとし、東海道を東して小田原に達したとき、たまたま急病に犯されそのため再起不能と知り、その首を酒田川のほとりに埋めてのち、このほとりにあって死んだ。
この地は綱一色という地名であり、ここに古くから伝えられる「新田義貞首塚」がその由緒を秘める旧蹟である。しかし三河の和田にもその首塚があって、泰藤が終生その首塚を護って世を終ったと伝えられ、果していずれが真か判断に苦しめられる。
いずれにしても、武茂泰藤とは何ものであるか、いよいよ出でていよいよ奇なる系図の神秘、人の世の縁由、これが宿世の業というものか、まことに奇々怪々というほかはあるまい。
武茂氏略系
武茂氏第一代の泰宗は宇都宮七代城主景綱の三男であり、那須郡武茂に築城し、孫泰藤は山村の無聊に苦しんでか、家督を弟氏泰に継がせて、戦乱のちまたに飛び出し、やがて南朝方に属して義貞の有力な武将として活躍した。宇都宮美濃将監泰藤の名もこれによるものである。
そこで義貞をめぐる氏家重国と武茂泰藤とは宇都宮氏の同族でありながら敵味方に分れ、二氏の関係を知ってか知らないでか、各々わが道を行って南北朝時代史を飾ったわけである。