源氏の血を享けて共に各々の父祖を生み出した所がわが下野であり、南北朝時代から室町時代にかけて大活躍を遂げた両氏の功績を比較検討するために特に本稿を取扱うこととし、まず新田一族の興亡について述べる。
義貞の一男義顕は先に越前金ケ崎城を守り父義貞の死後敗戦の尊良親王と共に自刃、三男義宗は脇屋義助の子すなわち従弟に当る脇屋義治らと、しばしば尊氏の軍を苦しめたが、後に破れて越後、信濃の兵を率いて再興を策し、やがて尊氏と東国の小手指原に戦って敗れ越後に逃走し、正平十三年(一三五八)兄義興が武蔵にあって謀殺された後をうけて同二十三年(一三六八)七月、従弟義治と共に上杉憲将と戦って敗死、義治は脱出して遠く出羽に逃れたが史上その終るところが知られていない。
また義宗の子義則は鎌倉管領足利氏満によって暗殺されている。
次男義興は延元二年(一三三七)奥州にあった北畠顕家が鎌倉を攻めた時、兵を率いてこれに加わり、鎌倉を征して後に西上し、或は上杉憲顕を破り、或は北畠顕信と共に足利軍と戦って敗れ、次で義良親王に従い東国に移ったが、足利尊氏が正平十三年(一三五八)に病没、その子義詮が将軍職につき、その弟基氏が関東管領となったが、この頃、義興が弟義宗や、脇屋義治と共に越後にかくれ住んでいることを知った武蔵・上野の豪族たちが、三人のうち誰か一人だけでも義兵を挙げてほしいと申し入れたところ、義興が進んでこれに応じたが、正平十三年十月、武蔵多摩川の北岸矢口村の矢口の渡しにおいて謀殺された。世にいう「神霊矢口渡」の種本となった太平記には大要次のような妖気の漂う話が述べられている。
義興挙兵のことを知った鎌倉管領足利基氏、畠山入道道誓は、これを重視し、基氏は対策の一切を道誓に委せたが、奸智にたけた道誓はある夜、竹沢右京亮を招いてある秘策を授けた。右京亮が先軍武蔵野合戦のおり義興方にあって忠勤を尽したことから、これを利用して、巧みに義興に近づき、これを討てとそそのかした。「先軍の武蔵野合戦とは、これより先正平七年義興が鎌倉勢と戦い、大いにこれを破った時のことである。」
かつて義興が武蔵、上野の地に身をひそめていたころ宇都宮の清党(宇都宮の双翼といわれその勇猛をうたわれた芳賀氏が清党、益子氏が紀党、紀清両党がこれである。)が二千余騎をもって義興勢を取り囲んだことがあったが巧みに逃れて以来義興は「天をかけり、地にひそむ術あり」とまで語り伝えられて多くの人々を驚かせた。
それほどの勇将も終に道誓と竹沢らによって多摩川のほとりにあって謀殺され、そのことあって以来、関係者のたれかれが種々の妖怪に苦しめられたところから神霊の仕業として演劇などに仕組まれたものである。
すなわち右京亮らが忠功抜群なりとて数ケ所の領地を与えられ、その恩賞の領地を訪れるために矢口渡にさしかかった時、突如として雷鳴とどろき船こぐ男たちが水にのまれたとか、緋威(ひおどし)の鎧を着た義興の亡霊が現われ、驚いて水に落ち、引き出されてその家に運ばれたが、狂乱の末に死んだとか、元凶の畠山入道が義興の悪夢に苦しめられたとか、その後この矢口渡には義興の怨霊が現われたとか、そのためにこのほとりに「新田大明神」としてその霊を祀ったと。
このような新田一族の没落に比すれば足利氏の繁栄は実にめざましく、それらについては室町幕府の動きを中心に「室町時代」として取扱うことになる。
付記
新田氏の家紋は「中黒」といい、その形が鍋の蓋のようであり、足利氏の方は「二引両(ふたつびきりょう)」といって釜の蓋の形をしている。この家紋のことを知れば、当時流布されたという次のような川柳の意味がよくわかり苦笑禁じがたいものがあると思う。
元是れ同根鍋の蓋釜のふた
鍋釜のふた南北でたたき合ひ
へっついへ新田足利陣を取り
新田・足利両氏系図