正平十年(一三五五)(北朝文和四年)三月十三日足利尊氏は親子不和となり、子直冬は南朝に降り、勅命を奉じて父尊氏を京都に討つ為に両軍東寺に戦った。
此の時那須太郎(或は五郎)備前守資藤は尊氏の麾下となり、直冬の軍と戦った。この時の戦のもようを、「那須記」は次のように語っている。
……前略。
其の後神南の合戦に、山名打負けて本陣に引返す。尊氏これを見て、叡山より下り、三万余騎にて東山に陣をとる。
仁木左京大夫頼章、丹後、丹波勢三千余騎を従へて嵐山にとり登る。京の南、淀、鳥羽、赤井、八幡にいたるまで宮方の陣となり ……中略。
三月十三日仁木、細川、土岐、佐々木、武田、小笠原、相集ひて、七千余騎七条西の洞院に押し寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦い、一手は尾張修理大夫高経とたたかひしが、奇せ手ややもすればかけたてられ、負け色に見えければ、尊氏将軍那須五郎が方へ使者を立て宣ひけるは、「仁木、細川は尾張修理大夫と戦ふといへども、負け色に見え候。彼の陣に向って追い散らし敵味方に見せられ候へ。」と仰せければ、那須五郎承り、「お使の趣かしこまり候。某が小勢にて尾張が大勢と戦うといへども、九牛が一毛、満蔵が一粒なれば、打ち勝たんこと思いも寄らず存じ候へども、彼が陣に押寄せ討死仕るまでの事にて候。」とて、使者を返しける。
資藤今度の合戦に出るはじめ、故郷の老母の方へ人を出して申し送りけるは、「今度の合戦にもし討死仕り候はば、親に先立って、草葉のかげまでおなげきを見奉らんことこそ思ひやられてかなしく存じ候。」と申しつかはしければ、老母泣く泣く返事をかきておくりけり。 ……中略。
さらでだに戦場に臨んで命を軽んずる資藤が、母公に義をすすめられて(薄紅の母衣を送った)いよいよ気をはげましける所に、将軍より別して使者をたまはり、余儀なく頼まれければ、かつて一儀も云はず了承して、河田三郎隆衡を召して申しけるは、「某このたび老母よりかかる諌を蒙りて候。其の上、将軍より頼られ申すこと、身の面目なり。大勢の中へかけ入って討死せんと思うなり。和殿はそれがしの働きを見物して下野に下り、このありさまを母公に申し上げ、これを形見に奉れ。」とて、肌の守りにびんの髪を切って渡しける。河田承り、「御一期の御大事を見すててまかり下らんこと、命生きて侍るとも、誰も侍るとは申すまじ。全く国へは帰り申すまじ。」と、申しければ、資藤きいて「もっともなれども、最後に老母のいかなる体にて死にたるらんと思召されんことの口おしさにわざと下すぞ。ただ下れ。又安王丸、国王丸をとり立て、重く天下のご用にもたてよかし。万事たのむ。」と仰せける。
河田力およばず了承す。心の内こそかなしけれ。資藤よろこび、今は心安しと思召し、角田但馬守、伊王野次郎左衛門、沢村次郎資利、森田光貞、福原太郎政隆、佐久山次郎国泰、滝田六郎資宗、竿渕三郎幹綱、堅田八郎義宗、稗田九郎朝隆、戸福寺十郎為義、荏原三郎朝隆、味岡四郎広隆、稲沢播磨守資継、中村喜八郎重政、大島藤八郎、源義継等を呼びて宣ひけるは、「あの大勢に打勝つことなかなか思ひもよらず。此の度無二無三にかけ入り討死せんと存ず。何れもいかが思はるるや。」とありければ、角田承って、「此の度の御合戦は、利を得たまはんこと、千に一つも候ましと存じ候。たとへ身方鉄石なりとも叶ふべからず。ただいさぎよき合戦候ふて、一足も退かず討死あって名を後代に残したまへ。」と申しけり。
資藤もっともとて御装束を仕りたまひける。宗隆の八島にて着たまひたる浅黄匂いの御鎧に、三尺五寸の大刀をはき、薄紅の母衣をかけ、三人張りに十三束のわしの羽の矢四十二さして森の如くに負ひ、甲は郎等にもたせいでければ、二人の弟も弓もちて左右にたちならぶ。三十四騎相具して歩み寄る。其の身厳然としてあへて近づくものもなし。 ……後略。
其の後神南の合戦に、山名打負けて本陣に引返す。尊氏これを見て、叡山より下り、三万余騎にて東山に陣をとる。
仁木左京大夫頼章、丹後、丹波勢三千余騎を従へて嵐山にとり登る。京の南、淀、鳥羽、赤井、八幡にいたるまで宮方の陣となり ……中略。
三月十三日仁木、細川、土岐、佐々木、武田、小笠原、相集ひて、七千余騎七条西の洞院に押し寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦い、一手は尾張修理大夫高経とたたかひしが、奇せ手ややもすればかけたてられ、負け色に見えければ、尊氏将軍那須五郎が方へ使者を立て宣ひけるは、「仁木、細川は尾張修理大夫と戦ふといへども、負け色に見え候。彼の陣に向って追い散らし敵味方に見せられ候へ。」と仰せければ、那須五郎承り、「お使の趣かしこまり候。某が小勢にて尾張が大勢と戦うといへども、九牛が一毛、満蔵が一粒なれば、打ち勝たんこと思いも寄らず存じ候へども、彼が陣に押寄せ討死仕るまでの事にて候。」とて、使者を返しける。
資藤今度の合戦に出るはじめ、故郷の老母の方へ人を出して申し送りけるは、「今度の合戦にもし討死仕り候はば、親に先立って、草葉のかげまでおなげきを見奉らんことこそ思ひやられてかなしく存じ候。」と申しつかはしければ、老母泣く泣く返事をかきておくりけり。 ……中略。
さらでだに戦場に臨んで命を軽んずる資藤が、母公に義をすすめられて(薄紅の母衣を送った)いよいよ気をはげましける所に、将軍より別して使者をたまはり、余儀なく頼まれければ、かつて一儀も云はず了承して、河田三郎隆衡を召して申しけるは、「某このたび老母よりかかる諌を蒙りて候。其の上、将軍より頼られ申すこと、身の面目なり。大勢の中へかけ入って討死せんと思うなり。和殿はそれがしの働きを見物して下野に下り、このありさまを母公に申し上げ、これを形見に奉れ。」とて、肌の守りにびんの髪を切って渡しける。河田承り、「御一期の御大事を見すててまかり下らんこと、命生きて侍るとも、誰も侍るとは申すまじ。全く国へは帰り申すまじ。」と、申しければ、資藤きいて「もっともなれども、最後に老母のいかなる体にて死にたるらんと思召されんことの口おしさにわざと下すぞ。ただ下れ。又安王丸、国王丸をとり立て、重く天下のご用にもたてよかし。万事たのむ。」と仰せける。
河田力およばず了承す。心の内こそかなしけれ。資藤よろこび、今は心安しと思召し、角田但馬守、伊王野次郎左衛門、沢村次郎資利、森田光貞、福原太郎政隆、佐久山次郎国泰、滝田六郎資宗、竿渕三郎幹綱、堅田八郎義宗、稗田九郎朝隆、戸福寺十郎為義、荏原三郎朝隆、味岡四郎広隆、稲沢播磨守資継、中村喜八郎重政、大島藤八郎、源義継等を呼びて宣ひけるは、「あの大勢に打勝つことなかなか思ひもよらず。此の度無二無三にかけ入り討死せんと存ず。何れもいかが思はるるや。」とありければ、角田承って、「此の度の御合戦は、利を得たまはんこと、千に一つも候ましと存じ候。たとへ身方鉄石なりとも叶ふべからず。ただいさぎよき合戦候ふて、一足も退かず討死あって名を後代に残したまへ。」と申しけり。
資藤もっともとて御装束を仕りたまひける。宗隆の八島にて着たまひたる浅黄匂いの御鎧に、三尺五寸の大刀をはき、薄紅の母衣をかけ、三人張りに十三束のわしの羽の矢四十二さして森の如くに負ひ、甲は郎等にもたせいでければ、二人の弟も弓もちて左右にたちならぶ。三十四騎相具して歩み寄る。其の身厳然としてあへて近づくものもなし。 ……後略。
こうして死を覚悟した主従は、尾張修理大夫高経の陣に切って入り一族郎党ことごとく討死するのであるが、河田六郎は只一人資藤の遺命を守り、形身を抱いて国に帰り、倶に戦のもようを老母に報告した。
以上「那須記」の概略を記したが、之は太平記にある文を借用したのではないかと思う。
那須氏系図資藤の条に、
「文和四年乙未三月十三日足利将軍尊氏与直冬戦干東寺此時老母贈薄紅縨励戦功遂奉将軍命率数十騎入敵軍戦大破一方揚名後世古又跡大平記矣。」 とある。
このようにして初め苦戦に陥った尊氏軍もようやく勢を盛り返し、遂に直冬軍を破ってやがて天下制覇への道を進むのであるが、一族の重だった者の殆んどが討死したとはいえ、足利氏からは重視され、資藤の跡は嫡子安王丸が継いで越後守資世と名乗り四位少将に任ぜられ、関東管領足利氏満に属して勢威を張り、資世の嫡子資氏は四位侍従に任ぜられて管領足利持氏に仕えて鎌倉沙汰所となる等、一族は皆暫らくの間那須の地に君臨して勢威いよいよ挙ったのである。