京都にあった足利尊氏と弟直義が不仲となってから、憤然として直義は鎌倉に帰ったが尊氏はこのことを心配して直義と仲直りをするために鎌倉に向って駿河に達したのが正平六年(北朝の観応二年―一三五一)雪空寒い十二月である。
すると足利尊氏を途中にあって討取ろうとする直義の大軍が鎌倉を出たよしを知った尊氏はとりあえず難をさけて要害の薩埵山上に防禦の陣を構え、容易ならぬ形勢となったことを察した尊氏は、かねがね親交の時代もあり関東の豪勇をもって天下に鳴った宇都宮公綱に救援頼むの急使を送った。
このころ公綱は西国各所における戦いにあきて宇都宮に帰り、理蓮と号して入道の身となっていたが、尊氏の急使に接して「弟の身をもって兄に叛するとは許しがたい」と直ちに救援を約し、一族の間に檄を飛ばして出陣をうながし、十五日芳賀高名入道禅可、薬師寺入道元可の三入道を幹部とするほとんど下野各地にわたって真岡、益子、氏家、横田、喜連川、もちろん同族関係の那須小山等々総勢子五百騎(正平四年三月の東寺合戦には那須資藤が尊氏の陣に加わって武功をあらわした後に戦死している一事から見ても那須勢が参加していないはずはない。)が佐野を過ぎて佐野勢五百余騎に迎えられて共に南下し、武蔵を過ぎ相模に進んだころは、宇都宮軍の勇名を聞き伝えた軍兵が続々と来り投じて、すでに三万騎となって国府津に着き、さらに小山氏政が七百騎を率いて参加、全軍の意気まさに揚った。
しかも山を十重二十重に囲んで攻めあぐんでいた直義の大軍から、夜陰に乗じて公綱軍に加わるものさえ続出、いよいよ総攻撃が開始された。
ドン・ドン・ドドーン・ドン
宇都宮勢の陣太鼓の音が各所に起る。これは直義に挑戦の挨拶と尊氏に対し公綱来るの知らせである。果して山上からはこれに呼応する喊声が嵐のように起り、直義の陣はにわかに乱れて見る見る囲みは崩れていった。
ボー・ボー・ボボー・ボー・ボロロー
異様な響がまた宇都宮勢の一隅に起った。得意とする法螺の音である。
かくて直義勢は臆病風にとりつかれて「天狗が来たぞ。」とわめきながら四散するほかはなかったが、間もなく山上からは割れるような喊声がまた一際高く起った。尊氏と公綱との勝利の会見に他ならない。
踏み砕かれた金山の落葉は血に染まって生々しい敵味方の屍で道はとざされたが、宇都宮勢にあっても戦死者の数はすこぶる多く、特に部将たちの討死が多かったことは、下野関係の戦いにおいて他に類例がないであろう。
すなわち芳賀高置・岡本(芳賀)富高・氏家忠朝、薬師寺義春、風見胤重、大宮胤景、高根沢兼吉、戸祭高勝、大久保秀清、さらに法螺を吹き鳴らした神職中里神大夫高茂、玉生権大夫統信まで戦死をとげている。
しかも将兵の活躍は実にめざましく、横田貞朝の如きは敵陣に討ち入り十七騎をうち取って首が担ぎきれず、さらに進んで敵将の旗指物(はたさしもの)を奪い取ってその首を包んで帰った。
やがて直義は尊氏に対し和議の申入れを行い寺にこもって謹慎の意を表わし、公綱は尊氏と共に鎌倉に入った。
明くれば正平七年(一三五二)正月六日夜、尊氏兄弟が共に前非を悔いてここに事は終った。
尊氏は公綱に対し備後守である上に上野、信濃の守護職に補して正四位に叙し、さらに一族郎党に対して格別の恩賞が行われ、芳賀高名従五位下、越後の守護職に、益子貞正は従五位下、薬師寺公義は官位を弟たちに譲って淡々たる入道ぶりを示し、義夏は従五位下阿波守に、助義は正六位上山城守に、氏家周綱は五位下大宰少貮、その子らは各々正六位に、特に勇将の横田貞朝は従五位上安芸守に小山氏政は従五位下、下野大掾に任ぜられるなど、まさにはなばなしい戦史を編んだ。