第六編 室町・戦国時代

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 足利尊氏が初め今日は官軍、明日は賊軍に属して去執定かでなかった時代は、弟直義によって護良親王が害されたころから、遂に叛旗をひるがえすことになり、戦い敗れてしばらく西に赴いたが、賊名をまぬかれるため光厳院の院宣を請い、大兵を西国に募って京都に攻め上り、後醍醐天皇を放逐し光厳院を天皇と仰いで政治の実権を握ったことについては先にのべた通りである。
 かくて光厳院から征夷大将軍に補せられたが、いよいよ多年の野望である武家政治の再興を志し、鎌倉に幕府を開こうとしたものの京都の政情は南北両朝の対立をめぐって決して安らかでないため、自ら鎌倉に移ることの危険を感じて、次子基氏を鎌倉の主(関東管領)たらしめ、自らは室町幕府の開祖となった。
 このように尊氏が征夷大将軍に補せられたことも正統の後醍醐天皇とその一統たる南朝の家臣たちから見れば、尊氏手製の大将軍に過ぎないと嘲笑されるなど、南朝のある限り枕を高うして眠れないというのが実情であり、この不安を除去するために、どんな手段が行われたかといえば、有力な諸将の歓心を得るために惜みなく領土を与えたことである。この手段は成功したかにみえたが、尊氏ら幕府創建の初期にあっては一応の安定剤となったにしても、長い眼で見た場合は足利氏の没落を招く種子をまいたこととなり、諸将はしだいに強力化し、そのもてあます実力が仇となって抗争を生み出すようになり、この弊風が足利氏の終りまで、ほとんど絶える時のない戦乱がくりひろげられた。
 これが宿世の業ともいわれるべきで室町幕府の時代は戦国時代を生み出すための陣痛に苦しめられたことになると言ってもよいように思うのである。
 この時代は三代義満が全盛をきわめて金閣寺建立など土木の事業を起したことなどを別として、多くの叛乱が発生したことが目につき関東にあって禅秀の乱、小栗氏の乱、またこれに続いて永享の乱、結城合戦などの起るころ、西にあっては嘉吉の乱から応仁の乱となって戦国時代を生み出すなど、まさに東に西に動揺止む時はなかった。
 この間にあって上杉憲実の足利学校創立、夢想国師の重用、一休禅師の諸国行脚、宗祗、宗長らの文学の旅など、相当わが下野に関するものがないわけではないが多くは東国にあっての出来事で京都方面に関係する事項は極めて乏しい。(飯尾宗祗の白河紀行については前編で掲載したので重複をさける。)
 尊氏は長男義詮を京都に居らしめ、義詮の弟基氏を鎌倉に置き、義詮の子孫は代々京都にあって将軍となり、基氏の子孫は世々鎌倉にあって関東管領(鎌倉管領ともいう)を継いたことは、すでに述べた通りであるが、尊氏は管領を補佐するものとして上杉憲顕を執事として鎌倉をかためさせた。