資氏は結城の女を娶り二子を生む。兄資之は従五位下越後守となり、鎌倉の執事上杉氏憲入道禅秀の女を娶る。弟資重は同族沢村氏をつぎ沢村五郎資重と名乗り、佐竹義俊の女を娶って、後、従五位下加賀守に任じた。父資氏は資重の人となりを愛し、下那須一円を資重に与えようと考えた。之を知った兄資之は父の所業をにくみ、幾度か資重を除こうと図った。
たまたま、応永十五年(一四〇八)四月十三日資氏は父資世に先んじて歿し、応永二十一年(一四一四)祖父資世も亦卒するに及んで資之はいよいよその志をかため外舅上杉禅秀(氏憲)とはかり兵を催して矢板市の沢村城を囲んだ。
角田庄兵衛重安は資之のこのくわだてを知り、かくと資重につげたので資重又兵を集めて防ぎ戦ったが、勝敗決せず。
資重は戦の不利なのをみて、その夜一族郎従を従い興野館に落ち延び、後下境稲積城を補修して移り住んだが、更に烏山城に移った。
この時沢村に味方した人々は、
池沢源五郎政信、川井六郎兵衛安利、稗田九郎兵衛尉朝信、角田庄右衛門重利、金枝左衛門義隆、熊田源兵衛忠範、大桶大俵三佐衛門光秀、谷田の住人館野越前守義弘、小口兵衛重勝、高岡村矢田弥左衛門宗忠、興野弥左衛門義清、滝田平左衛門隆貞、千本十郎、森田次郎らをはじめとして、其の勢百六十騎、一方資之に味方した人々は、堅田太郎兵衛隆時、大関右衛門尉増義、大田原兵尉増氏、芦野弾正左衛門資任、伊王野次郎左衛門隆泰、稲沢五郎左衛門隆定、河田六郎隆国、同六郎兵衛尉任資、佐久山次郎兵衛尉義範、荏原三郎左衛門朝秀この人々を先として、狩野、百村の野武士ら都合其の勢三百余騎
以上が那須記に記されている勢力分野と、その兵力であるが(その他の書も概ね大同小異である)これをみると資重に味方した面々は下の庄の者達であり、資重が下の庄に行くことを喜ばなかった資之に味方した者は上の庄の人々であり、この時既に那須家は上下二つに分立したものと見るべきであるように思うし、しかもこの分裂は次に起る上杉禅秀の乱にも判然とするようである。
京都における足利尊氏と鎌倉管領とは一族であり、互に援け合ってその隆盛を生み出していたのは足利将軍統治の初期のみであり、その後は或は互に敵視し、あるいはその地位を争うなど、尊氏、直義兄弟が骨肉相はむ争を起したと同様いつの時代にも、あるいはどの家系にも常套のように行われ、やがて下剋上の戦国の世へと移るのである。
この将軍家と管領家との確執が、さらに管領と執事との対立抗争を生むようになって、乱雲はようやく東国に動く形勢となり、応永十七年(一四一〇)鎌倉にあっては管領足利満兼が歿して足利持氏がその職を継いだが、当時権勢を振っていた執事上杉氏憲(入道禅秀)に辞職を迫り上杉憲基を支持したことから氏憲は執事の職を辞して家にひき籠った。
たまたま京都にあっては、将軍義持の弟義嗣が将軍に不平を抱き、又管領足利持氏の叔父満隆が持氏に不満を持っていることを知った氏憲は、義嗣、満隆らと結んで、応永二十三年(一四一六)十月鎌倉に兵を挙げ持氏、憲基を攻めた。持氏は逃れて駿河の今川範政を頼り、憲元は越後に逃れた。このために鎌倉は一時氏憲、満隆のものとなったが、将軍足利義持は持氏を支持し、氏憲(禅秀)らの討伐を命じ、今川範政、越後の上杉房方らに援助させた。応永二十四年(一四一七)正月、氏憲、満隆等は相模川に戦ったが、戦敗れ、満隆らと共に鎌倉雪の下で自殺し、これに協力した関東の諸将は夫々郷国に帰った。
これを禅秀の乱という。
この戦に姻戚として禅秀方に味方した者は、
下総千葉介兼胤 上野岩松満純 下野那須資之 甲斐武田信満 常陸大掾満幹
その他の荷担者
奥州篠川足利満貞 常陸山入与義 常陸小田持家等であった。
禅秀の乱後、常陸の小栗満重は禅秀に味方した故をもって、その所領を没収された。満重はこれを不満として小栗城に拠って反し宇都宮持綱、桃井宣義らがこれを援けた。
持氏は上杉重方、小山満泰を将として小栗氏を攻めさせたが屈せず、そのため持氏は自ら兵を率いて、ようやくこれに勝ち、満重は逃れて三河に走り同族のものを頼ったがその後この所にあって没した。
小山満泰は重興小山氏二代の城主であり、応永七年(一四〇〇)同族の結城満広が弟泰朝をして小山城を再興させた。泰朝の長子が満泰(初名広朝)である。
宇都宮持綱は小栗落城の報によって姿をかくし、管領持氏は宇都宮攻略を期して下野に兵を進めたが、この時、持綱が塩谷教綱によって矢板市の西方、幸岡原で暗殺されたことを知り軍を引揚げて鎌倉に帰った。
持氏の死については諸説紛々であるが、宇都宮十二代満綱が鎌倉で病死した後にまえまえから同族武茂綱家の子で満綱の養子となっていたのが持綱である。
持綱生害のとき、その子等綱はまだ四才、家臣に守られて宇都宮を脱出、諸国を流浪して行方をくらませ、十九才になったとき帰城して家督を継いだが、長禄元年(一四五七)古河公方成氏が「謀叛人持綱の子でありながら城主になるとは怪しからぬ」と、自ら兵を率いて宇都宮に攻めよせたが、等綱の妻が小山持政の女であったため、持政が乗り出して成氏にわびを入れさせ、幼少の子明綱に家督を譲って二十八才の若さで入道の身となり、ひとり淋しく北に向って奥州路に旅立った。
二十二代にわたる宇都宮城主の中にあって等綱ほど悲運の人となったものはなく、漂泊の身となって後の動静は不明であるが、寛正元年(一四六〇)三月、奥州白河にあって四十一才をもって死んだことだけが明らかである。
一方の塩谷教綱はその後宇都宮と和議が成ったが、長禄二年(一四五八)宇都宮城中に招かれて暗殺され、ここに塩谷氏は断絶し、しばらくして宇都宮正綱が四男孝綱を川崎の古城に住ませたころからやがて、重興が塩谷氏の第一代城主となった。
当時における東国動乱の中にあった下野の動静はおおむね以上のようであるが、管領持氏のその後については稿を改めて述べようと思う。
上杉氏系図(上杉氏もと藤原氏)