第二章 永享の乱と下野武将の参戦

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 応永三十二年(一四二五)二月、将軍義量が乱酒の結果死没、後継がないため前将軍の父義持が政に当ること四年、正長元年(一四二八)正月、義持病床にあって将軍職を四人の子等の中から選ばせた結果、当時僧籍にあった義円が後嗣となり、義持病死の後、還俗して将軍職に任ぜられ、名を義教と改めた。
 ところが義持の病にかかったころから、しきりに将軍職をねらったのが野心家の鎌倉管領持氏であり、義教が将軍となると知ってからは京都に対する反感が高まり、将軍となった祝賀のあいさつも行なわず、さらに関東地区の幕府領年貢米も送ることをやめるなど露骨な敵意を示した。
 新将軍義教は大いに怒って持氏討伐の軍を準備させた。この形勢を重視した重臣たちが両方の和解を進言したが好転せず、初め将軍は鎌倉の執事上杉憲実を動かして持氏の自重をうながしたが、頑迷な持氏には反省の色なく、ために持氏と憲実との感情まで対立する状態となり、持氏が憲実の重臣長尾景仲を領国に帰るよう命じたとき、憲実はこの命令を拒絶して藤沢に退隠したため持氏が藤沢を訪れて元のように鎌倉出仕を請うなど何となく割切れない二人の仲となってしまった。
 かくて憲実は持氏との関係を絶つことを決意し、執事職を辞して郷国上野に帰ったが、鎌倉が騒然となったため遂に持氏は憲実討伐の軍を発し、自らも武蔵の府中に本陣を構えた。小山広朝、結城氏朝らも来たり加わり、憲実が急使を京都に送ったため、将軍義教は上杉持房らを援軍として急派し、その将兵が足柄、箱根に進出するころ多くの国の将兵がこれを迎えて参加し、持家の軍将上杉憲直が足柄にあって戦死するころから、多年にわたり持氏に反感を抱いたものが叛旗をひるがえすという形勢をました。
 やがて憲実は上野を出て、進んで分陪河原に陣したころから東国の将兵が続々とその陣に参加したが、それらの中に那須美濃入道、同遠江守満資の名があって、これは那須資之と氏資の父子であることは諸書の一致した見解であるが、氏資の母すなわち資之の妻が入道禅秀の女であるため、禅秀の乱に於て無念の敗北をとげた恨もあり且また武門の意地からも持氏に対して戦をいどんだことも当然であったのであろう。
 しかも、この頃になると鎌倉の将兵たちは持氏に叛き憲実に投ずるものが激増し、憲実が入間川のほとりに進出すると、持氏は使者をもって和を請うたが拒否されたため怒って戦いを交えたが惨敗して空しく鎌倉にもどり永安寺、金沢の称名寺などを転々する間に何を考えたか出家して名を道継と号し、管領職をその子義久に伝えようとしたが、憲実は使を京都に送って持氏の罪を許すよう願い出て主従の情誼をつくしたが、将軍義教はこれを拒絶し、断乎として鎌倉永安寺において殺せと厳命した。
 憲実は止むなく上杉持朝らをして永安寺を囲ませたが、さすがの持氏もその妻や叔父満貞らと共に自刃し(時に四十二才)、義久(十七才)も別寺にあって自殺、持氏の子安王と春王は下野に逃れ日光山にかくれた。
 時は永享十一年(一四三九)三月、よって永享の乱と呼ばれ、鎌倉管領家はしばらく断絶の形となった。