やがて日光山にあった安王と春王の侍臣たちは、憲実を討って父持氏の無念を晴らさせようと考えて結城氏朝の義心に訴えたため、氏朝は意を決し近隣に挙兵の事情を訴えて援軍を求め、その子久光を日光山に遣わしてひそかに二王を連れ出し結城城内に移した。
かくて野田氏行が古河城にあって、小山の一族下河辺氏が南方の関宿城に拠って氏朝と結び、千葉、佐竹、宇都宮など関八州の豪族たちも進んで応援に起ち、信濃にひそんでいた永寿王も巧みに結城城内に移されたちまちの間に結城城を中心として気勢は大いにあがったのである。
時は永享十二年(一四四〇)三月、将軍義政はこの急報に接して憲実に対し出陣を促したが固辞して受けず、同族の上杉清方、同持朝に命じて結城に向わせたが、八月になってから憲実自ら出陣して小山城に本陣を構えた。小山氏と結城氏とは同族でありながら敵味方に分れたことは、いささか了解に苦しむが。
かくて、結城城の攻防戦は延々として、すでに一年を過ぎても勝敗が決せず、万策つきたころ、氏朝の一族中に上杉軍に投降するものがあったり、城内にあって叛するものが現われ城内に火を放ったものがあったりして、さすがの結城勢も力が尽き、ひそかに安王と春王を脱出させて後、氏朝とその子持朝とは最後の決戦を挑んで共に悲壮な戦死を遂げた。
当時の結城氏と重興小山氏略系
しかし脱出成った安王、春王は上杉清方の兵によって発見され、永寿王もまた乳母に抱かれて逃げ去ろうとする途中にあって小山持政の兵に捕えられた。
上杉勢は転じて古河城を攻めて野田氏を追い出し、さらに関宿城を陥れたため、ここに戦乱はようやく終ったが、これらの紛争により関東は四分五裂して互いに対立する形勢となり、次代の戦国争乱を生む台風の目となってすでに坂東太郎と呼ばれる大利根の流れにも草生い茂る荒野にも嵐を思わせる雲の動きが静かにその影を落していた。
さて先に捕えられた持氏の幼い遣児たちは小山氏朝の首と共に京都に送られたが、氏朝の首は六波羅にさらされ、安王と春王とは美濃の垂井宿金蓮寺境内にあって無残にも共に斬られた。時に安王十三才、春王十一才のいたいけな少年に過ぎなかった。
そのころ将軍義教は赤松満祐によって殺され京都は上を下への混乱を生んだが、京雀たちは罪なき二少年を殺した報いであるとさわぎ立て、執事長尾昌賢の幕府に対する哀願が認められて、永寿王六才だけが死をまぬかれやがて鎌倉に迎えられた。まさに人間の運命ほど不可思議なものはない。