源頼朝の寵臣結城朝光を始祖とする名門結城氏は第十代氏朝に至って悲惨な滅亡を遂げたが、実は氏朝戦死のとき、第二子重朝が三才の身を多賀谷氏によって救出され、その後重朝は常陸の佐竹義俊の庇護によって成人し、やがて元服して結城に帰ったため旧臣たちが集まってたちまちに結城城を再建した。
享徳四年(一四五五)重朝は鎌倉に伴われて足利成氏に謁し、大いに喜ばれて成氏の一字を賜わって名を成朝と改めたが、時に未だ十四才であった。
足利成氏とは、永享の乱を起した足利持氏の第四子永寿王であり、乱後、兄安王と春王と共に捕えられ、その後二兄が美濃にあって無残な死を遂げたが永寿王だけが幼少の故をもって辛うじて助命されたことは先に述べた。
かくて永寿王は執事長尾氏に迎えられて鎌倉管領となったのが文安二年(一四四五)であるから年令は未だ十二才位であり、幼名永寿王を改めて成氏となったころのことである。
成氏が鎌倉管領となったとき、上杉憲実の子憲忠が執事となったが、成氏はひそかに上杉を父兄の仇敵として、結城成朝と謀り、憲忠を殺害するという暴挙をあえてした。成氏も成朝も共に分別もない少年の時であるからだと許容するようななまやさしい出来事ではなかったのである。
果してこれまでに成氏を育てた長尾執事らは将来の危険を感じてか、憲忠の弟房顕を将として鎌倉を攻めさせ、幕府もまた駿河の今川氏をして成氏を討たせたため、成氏は戦意空しく鎌倉を脱出して下総古河に逃れ、やがて古河公方を称した。
そのころ将軍義政は弟政知を関東に送り、成氏に代って実権をにぎらせたがこれが堀越公方と称されて古河公方と対立する立場になった。
文明四年(一四七二)政知は上杉顕定(房顕の養子)と上杉定正(定政)を将として古河城の成氏を攻めさせたが、小山持政の子氏郷は宇都宮、千葉、結城の援軍と共にこれを武蔵に迎えて、あくまで成氏支持の態度を明らかにした。
この時、定正の部将太田道灌が古河城を急襲し、成氏は敗れて千葉に脱出したがその後成氏と定正と相和して、しばらく関東の平静は保たれることになり、将軍義政はこの形勢を知って成氏を古河に復帰させた。
成氏はわが地盤のかたまったころと見て、鎌倉にもどり、再び関東の主たらんとしたが終にその志空しく明応六年(一四九七)九月古河にあって没した。年六十四才。
よって上杉定正は成氏の子政氏を奉じて権勢を示し、上杉顕定を攻めてこれに勝ったがこのころから上杉一門の抗争が激化し、ここにまた関東は大いに乱れて、早くも戦国時代を彩る東国諸族の演ずる興亡史の序幕を垂れる形勢となった。