第一節 上那須氏の内訌と上那須氏の滅亡

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 上那須氏の内訌と大田原氏について、人見伝蔵氏は次のように記している。
 即ち「大田原胤清と上下那須の統一」で、大田原出雲守胤清は、那須大膳大夫那須資親の執政であった。初め資親に三女あり、長女は宇都宮成綱の室に、次女は沢村五郎の長子資実に嫁した。三女には白河城主結城義永の子を養嗣として妻せ、資永といい福原城に居た。胤清は之が輔佐に任し、佐久山、芦野、伊王野、稲沢、河田の諸氏とともに仕置をとり行った。その後資親は一男を挙げて之を資久と名づけ堅田郷山田城に置いて氏を山田と称し、金丸肥前守、大関宗増等を保傅とした。
 永正十一年(一五一四)資親病んで将に死のうとしたとき、胤清父子を枕頭に招き遺言して、「遺孤資久に家を継がしめないのが臨終の心残りである。汝吾意を体してよく之を図れ」と胤清之を承諾した。こうして資親が歿したので胤清其子資清に謂うには、「われ故君の遺命を思うに甚だ大事であるが、若し結城氏大軍を率いて来り攻めたならば我兵は必ず克つことが出来ない、暫く時機の到るを待つが宜かろう。且聖人も三年父の道を改めないを孝とのたまう。今父の喪がまた除かないのに弟を以て兄を討つことは、不義これより大なるはない。」と、資清いうに「父上の仰もさる事ながら父命を以て君命を辞せずと聞く。宜しく義を泰山の重きに比し、身を鴻毛の軽きに比して檄を宇都宮、武茂に発したならたとえ結城氏軍をあげて来るとも恐るる所はない。事もし遷延すれば人心未だ計られず。児また大関、金丸等の挙動を見るに已に心を我らに寄するものがある。大人事を挙ぐるは今日より善きはない。」と、胤清遂に意を決して宗増に告げると宗増之に賛成し、伊王野、芦野等また同意した。胤清乃ち兵を近邑に募り大輪、稗田、簗瀬、鮎瀬、佐久山、沢村の諸族合せて兵五百余を得た。資永報を聞き関義時にいふ。「胤清我に叛き来り襲うと聞く。我兵寡くして利なきこと必定である。援兵を白河に乞うにも路阻りて及ばない。城に拠って戦死せん。我死なば汝等白河に往き復び兵を起して我が恨を報いよ」と。初め資永の白河より那須に入る時、関十郎義時及び境俊音坊宥源、旗野藤次秀長、刈田次郎兵衛秀安、大隅川頼善坊昌範、国見沢入道高義、田川太郎兵衛掾時法、石田坂石見守国隆等が従って来た。是に於て皆死を決して夫卒百余人と遽かに守備を整へ、箒川を隔てて之を防いだ。時に永正十一年(一五一四)八月である。胤清等は蛭田原湯津上村蛭田に陣を構え(写真2)芦野氏先登して箒川を渉った。義時等城を出て拒ぎ戦った。胤清城西に廻り火を放たんとした。義時等之を望見して兵を収めて城に入った。胤清等これを追う。秀長、秀安等防戦し川田成信、太田義国と戦って戦死した。資永は力を竭くして奮戦したが、死傷するもの過半で昌範等もまた戦死した。資永乃ち城に入って固く備えた。胤清等急に囲み攻めた。資永意を決し別宴を設けていう「我命運已に窮まった。明日を以て力戦して死せんと思う。ただ資久を獲ないを恨みとする」と。この夜義時及び時法等風雨に乗じ兵六人を従えひそかに城を出で火を放って山田城を襲った。たまたま城に在るものは娘女子のみで敢て敵するものもなく、義時資久を虜にして福原城に帰り田川時法が之を殺した。翌日資永及び従者二十四人戦死し勢尽き七騎となって城に入り、終に自殺した。実に八月四日である。是に於て上那須氏は絶えた。

写真1 福原堀の内に残る福原城(北岡城)の土塁
(中央右よりに僅かに残る)


写真2 北岡城の断崖から箒川のかなた蛭田原を望む

  「那須政資を山田城に置く」
上那須家に於ける内部訌争の結果、資親の名跡は遂に断絶するに至った。宇都宮右馬頭成綱(資久の長姉の夫)は大田原資清、大関宗増を宇都宮城に招き、「資久の戦死によって上那須の家名絶えんこと遺感である。あわれ両人の計らいにて我弟を後継たらしめよ」と告げた。両人対えていうに「この頃白河の結城義永は資永の弔合戦の為、来攻するとの風説がしきりである。然る時は宇都宮より援兵を遣わさるるは容易でなく、従って勝利を得んこと覚束ない。我等の存念には修理太夫資房の嫡子政資を継嗣となすことが善からん」と、成綱もっとものことと了承した。この時白河勢報復に来攻のことが聞えたので資房は興野義澄の議をいれ、山田城を修築して嫡子政資を山田城に置き白河に備えることとなり、永正十三年(一五一六)六月二日城郭の修築を終り、七日資房は烏山を発した。先陣は義澄七十余人、後陣は千本資俊百余人、曳馬百頭、長槍百挺、弓矢百張を従え隊伍二列で威風堂々行進して山田城に入り、翌八日政資は百五十騎を率いて移ったが大田原資清、大関宗増を輔翼に任じ烏山城に帰った。資清時に二十一才、宗増五十六才であった。