上那須氏の内訌当事共に力を合わせ、那須資久を援けて白河氏と戦った仲であったこれら両氏がなぜ争うに至ったか、その真相を明らかにすることは、これを証するに足る文献とてなく極めて困難である。
これについて大田原氏系譜(一)には次のように記している。
有故而出那須到干越前国永平寺
また別本大田原系譜(二)には
貴清(資清の幼名)二十二才永正十五戊寅十月九日源末大関弥五郎与資清有意趣故那須修理亮資房為讒言及既害故居城出大俵
とあり共にその真相については明記していない。
次に那須志(三)(撰者不明)には
大田原備前守入道不山永存時に福原五郎、大関弥五郎那須家へ追従して永存を讒す、永存福原、大関が奸謀を怒って大いに合戦を発す。不利にして越前国永平禅寺へ相越され云々
と記しており、福原、大関両氏の奸謀といっている。
さらに黒羽藩で撰したる創垂可継(四)では次のように記している。
大関弥五郎増次は美作守宗増の摘男なり、堅田郷山田に居城の時大田原備前守資清数代那須家の麾下にある恩を忘却して那須家を計るを企つ、依て大関増次その密計を深く歎息して那須家にひそかに告ぐ、那須家聞え驚而大田原為罰是故に大田原資清は忽ち入道して不山永存と改名して罪を謝し降参して廻国に出づ云々(これに記す増次は宗増の誤りであり、増次は当時生まれたばかりの幼児に過ぎない。)
なお那須記、那須家系譜にはこのことを全く記していない。
以上記した四つの文献を照合してみるに(一)と(三)には越前永平寺に到ったこと、(二)(三)には大関弥五郎が那須資房に讒したこと、(四)は(一)(二)(三)とは全く異なった事が記されている。右のうち那須志は撰者不明であるが伊王野家に関する記事が比較的多くかつ有利に記されている点より、伊王野家に由緒あるものの撰述ではなかろうか。
さてこの四つの文献を比較してみると、(一)(二)(三)にはそれぞれ共通点があるが(四)は全く異なった記事となっている。(一)(二)が共に大田原系譜なる故共通点があるのが当然としても(三)は比較的第三者的立場にある者の記事と考えられる点より、また(四)は黒羽藩により後代撰せられた点よりして、記事そのものは(三)の記事が比較的真相を語っているのではなかろうか。黒羽藩は後述の如く資清のため継嗣を断たれ、その長子熊光丸(後の弾正高増)を入れて後嗣としており、高増の人となり勇猛果断、従来の黒羽藩士達は怖れをなしておった点、その没後遺骸は元両郷村寺宿光厳寺に葬ったが、その後の藩主の遺骸はすべて大雄寺(黒羽町)に葬られてある点からして、家臣達は心中深く大田原氏に対し憎しみを蔵していたものと考えられ、その人々の撰したものが果たして真相を伝えているかどうか。なお伊王野氏は後年資清再挙の際越前朝倉氏の頼みもあり、那須氏帰参のとりなしをしている。
まず真相は次の点にあるのではないか。資清の父胤清の代はその勢力は未だ那須氏を謀るなどおよびもつかず、いかにしておのれの勢力の維持と増大を図るべきかに腐心していた有様であり、一方宗増とて同様であったであろう。だからこそこの両者は各その勢力増大を牽制しつつも表面は協力して那須氏を援けていたが、永正十五年(一五一八)時には胤清は没しており(永正十一年)資清は二十二才、生まれながらの豪勇の士、しかも当時世をあげて下剋上の風潮に満ち満ちており、自分の所領のみでは満足できず平地の所領を求めようとすれば、いきおい福原氏や大関氏との間に訌争があるであろうことも想像でき、そのことが三者の争のもとになったのではなかろうかとも思われるのである。
一方大関氏は当主宗増が五十六才、嫡子増次がやっと生まれたばかり、資清の豪勇さに怖れを抱き日夜その対策に腐心し、同様な立場にあった福原氏と謀り資清を除こうとして那須氏に資清の野望を告げたものとも考えられる。しかし当時資清はまだその野望を表面に表わさず着々と準備しておった程度であり、大関、福原両氏も主家那須家のためよりおのれのためを主とした策謀であったものとも考えられる。大関、福原両氏の兵の来襲を知った資清は奮然としてこれに立ち向かったものの、さらにそれが那須氏の先鋒たるを知るやいち早く鉾を収め、おのれは那須氏の勢力外たる塩谷郡館ノ川長興寺の兄麟道のもとに走り剃髪して永存と号し、さらに本山たる越前永平寺へ去ったのである。