第三節 那須、白河両氏の抗争(蓮見長氏那須郡誌より)

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 白河の城主結城義永、我が子資永のために報復を企て、岩城下総守常隆(岩城郡好間村大館城主)の援兵を得、兵一千五百余騎を率い、永正十七年(一五二〇)八月十二日、那須氏を攻めた。烏山城主那須資房、かねてこの事あるを知り、嫡子政資を山田城に置き、稲葉播磨守、伊王野次郎左衛門、金丸肥前守、大関、大田原、佐久山の諸族をして助け守らしめ、山田城を修築して変に備うる所があった。義永来って山田城を攻めるや、資房この報に接し、興野長門守義忠、熊田源兵衛高貞、大関新左衛門義任(黒羽城主には非ず、角田氏の出)河合出雲守安則、館野越前守直義、小口若狭守重勝、千本常陸介資俊、荒井駿河守政勝、岡太郎左衛門実一等を始め、三百余騎を率い、烏山を発して山田に向った(下野国誌)。山田に向った白河、岩城の軍はこれを聞き、関孫三郎、佐貫三郎等兵五百をして山田に当らしめ、義永、常隆共に歩騎九百を率いて、資房の軍を邀撃し、両軍繩釣台(小川町大字浄法寺)に会戦した。資房大いに義永の軍を破り、敵将白土淡路守、志賀塚備中守をたおした。世にこれを繩釣台の戦といい、敵屍を埋めた所を土塚という。山田の城兵、我が軍大捷の報を得、志気大いに振って勇戦したから、白河勢は大敗して逃げ帰った。(那須記。)
 翌大永元年(一五二一)十一月岩城常隆、繩釣台の戦において、部将白土淡路守、志賀塚備中守の両人を討死させたことを憤り、白河岩城の兵を合せて来り攻めた。宇都宮、小田、喜連川の援兵を合せて三千餘騎、一挙に烏山城を屠ろうとした。政資は上那須の兵七百を督し、烏山城を保ち、岩城、白河の軍に当り、資房は自ら兵五百を率いて烏山城を出て宇都宮、小田の軍を撃破しょうとし、烏山の出城である川井城(下江川村大字上川井)を修築してこれを拠守した。
 岩城、白河の兵、山田城を攻略し、更に進んで烏山城を攻めようとした。
 十一月四日、岩城、白河および小田、宇都宮の連合軍三千、川井城を攻撃した。合戦十余日に及んだが勝つことが出来ない。城将川井出雲守安則、衆寡敵し難いことを知って、資房に勧めて、夜半城を放棄して共に烏山の本城に入った。
 岩城常隆は軍を進めて烏山城を陥れようとしたが、宇都宮勢の軍師、壬生雪斎周長、その攻略し難いことを諫言したので、諸将はこれに従い、遂に軍を収めて撤去した。(那須記、下野国誌、白河故事考。)
 この後も那須氏は白河、宇都宮、常陸の佐竹氏等と夫々相争うのであるが、これらのことについては、以下項を改めて記すこととする。
 尚下野国誌に永正十七年の戦に始めて鉄炮を使用したことが記されている。
「永正十七年(一五二〇)庚辰八月十二日、白川の結城弾正少弼義永、我子資永が修羅の欝憤を晴さんと、岩城下総守常隆の与力をたのみ、其勢都合一千五百余騎を馳催し、上那須の浄法寺繩つるしと云原へ押寄せたり。……中略。

 敵陣より岩上三弥三、内藤左馬助と云もの、是まで関東にかつて無かりし鉄炮と云火矢を放しければ、那須勢大いに難儀しけるを荏原三郎朝秀、鮎ケ瀬源三義昌の両人ねらい寄て、彼岩上、内藤を射落しけり。其上敵将白戸淡路守は、大関新左衛門に討たれ、同志賀塚備中守は、石沢新五郎と組て討死しければ、奥州勢たちまち敗軍して、散々に成て引退く、」云々、
 始めて鉄炮が使用され、那須勢も稍驚いたようであるが、数は少なく後年のような威力はなかったものと思われる。