翌大永元年(一五二一)十一月岩城常隆、繩釣台の戦において、部将白土淡路守、志賀塚備中守の両人を討死させたことを憤り、白河岩城の兵を合せて来り攻めた。宇都宮、小田、喜連川の援兵を合せて三千餘騎、一挙に烏山城を屠ろうとした。政資は上那須の兵七百を督し、烏山城を保ち、岩城、白河の軍に当り、資房は自ら兵五百を率いて烏山城を出て宇都宮、小田の軍を撃破しょうとし、烏山の出城である川井城(下江川村大字上川井)を修築してこれを拠守した。
岩城、白河の兵、山田城を攻略し、更に進んで烏山城を攻めようとした。
十一月四日、岩城、白河および小田、宇都宮の連合軍三千、川井城を攻撃した。合戦十余日に及んだが勝つことが出来ない。城将川井出雲守安則、衆寡敵し難いことを知って、資房に勧めて、夜半城を放棄して共に烏山の本城に入った。
岩城常隆は軍を進めて烏山城を陥れようとしたが、宇都宮勢の軍師、壬生雪斎周長、その攻略し難いことを諫言したので、諸将はこれに従い、遂に軍を収めて撤去した。(那須記、下野国誌、白河故事考。)
この後も那須氏は白河、宇都宮、常陸の佐竹氏等と夫々相争うのであるが、これらのことについては、以下項を改めて記すこととする。
尚下野国誌に永正十七年の戦に始めて鉄炮を使用したことが記されている。
「永正十七年(一五二〇)庚辰八月十二日、白川の結城弾正少弼義永、我子資永が修羅の欝憤を晴さんと、岩城下総守常隆の与力をたのみ、其勢都合一千五百余騎を馳催し、上那須の浄法寺繩つるしと云原へ押寄せたり。……中略。
敵陣より岩上三弥三、内藤左馬助と云もの、是まで関東にかつて無かりし鉄炮と云火矢を放しければ、那須勢大いに難儀しけるを荏原三郎朝秀、鮎ケ瀬源三義昌の両人ねらい寄て、彼岩上、内藤を射落しけり。其上敵将白戸淡路守は、大関新左衛門に討たれ、同志賀塚備中守は、石沢新五郎と組て討死しければ、奥州勢たちまち敗軍して、散々に成て引退く、」云々、
始めて鉄炮が使用され、那須勢も稍驚いたようであるが、数は少なく後年のような威力はなかったものと思われる。