岩城常隆、川井城を陥れて、意稍々平である。この時常陸の佐竹式部大夫氏義は、那須氏との間を調停して和睦せしめた。
依って資房は、常隆の女を嫡子政資に配して孫高資を儲け、両家年来の確執全く融解するを得た。(那須氏系図)しかるに宇都宮俊綱(後に尚綱)これを嫉み、天文十八年(一五四九)九月二十七日紀清両党二千余騎を率い来って那須氏を攻め、塩谷郡喜連川五月女坂(さうとめざか)に進軍した。資房の嫡子那須修理大夫高資すなわち大関右衛門佐高増、大田原山城守綱清、芦野大和守資泰、伊王野下野守資宗、千本常陸介資俊、福原安芸守資則、金枝近江守義高、角田荘兵衛重利、興野弥四郎義国、稲沢播磨守俊吉等三百余を従えて、薄葉原に出陣し箒川を隔ててこれを邀えうった(下野国誌)衆寡敵せず、那須勢危く見えたが、伊王野資宗の家臣鮎ケ瀬弥五郎実光、宇都宮俊綱の小高い所に馬を立てて指揮していたのを、狙撃して誤たず射落してから、宇都宮勢脆くも大敗して奔走した。後弥五郎はこの地に俊綱供養のため、永楽十貫文を以て石塔を建てたので、世に十貫弥五郎坂と称した。これより那須、宇都宮両氏の間に隙を生じた。(継志集、下野国誌)