那須資胤那須家の本宗を継ぎ、修理大夫と称した。この頃会津の芦名左京大夫盛氏、白河の結城左京大夫晴綱、(白河古事考)と兵を合わせ、永禄三年(一五六〇)三月二十六日、盛氏一千余騎、嫡子十郎盛興二千餘騎、白河結城晴綱子息関七郎義親五百余騎を催して、資胤を討とうとした。資胤は常陸の佐竹左京大夫義昭よりの情報を得、迎撃しょうとして烏山を発し、上那須の諸豪大関右衛門佐高増、芦野大和守資泰、伊王野下野守資宗、大田原山城守綱清、稲沢播磨守俊吉、金丸肥前、河田六郎等を催督し兵一千に将として白河に向った。結城晴綱、子息義親父子これを聞き、兵五百を率い、両軍小田倉(元西郷村)に戦った。白河勢危く見えたが、会津勢二千余騎突如物陰より馳け出で救い戦ったから、那須勢敗退して、大将資胤は負傷した。すなわち弟福原弾左衛門資郡を召し、後事を託して自刃しょうとしたが、諫止されて果さなかった。
時しも後れ馳せに馳せ来った沢村主膳、小口八郎、小滝五郎、浄法寺、千本、森田等下那須勢の奮闘に力を得て善戦し、遂に会津、白河の軍を破り、逃ぐるを追って白河口皮籠原(かはぎはら)に攻め入り、民家に火を放って烏山に凱旋した。(野史、北越軍記、那須記)