第六節 那須・佐竹両氏の抗争(那須郡誌より)

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 奥州小田倉の戦において、那須資胤負傷の敗戦となったのは、大関右衛門佐高増を始めとして、芦野、大田原、稲沢、金丸等の上那須諸族の力戦の足らざる結果として、大いに資胤の不興を蒙った。資胤遂に大関高増を除こうと欲し、永禄四年(一五六一)三月、高増の家臣松本備後通勝を烏山城に召し、主君高増を殺さば、その所領を与えようと誘った。
 通勝陽に了承して帰り、これを高増に告げた。(諸臣系略)高増すなわちまづ領内の土豪沼野源治、余瀬三郎、飯田、金丸、河田等と謀り、尋いで上那須の諸族と伊王野に会合して、これが対応策を講じ、共に資胤に叛くことを決議した。ここにおいて高増自ら佐竹常陸介義重の許に至り、佐竹氏の旗下に属して那須氏を攻めんことを乞うた。義重即ち許諾し、東将監政義を遣わし、兵を率いて那須資胤を攻めしめた。
 永禄九年(一五六六)八月二十四日、高増主となり、芦野、伊王野、大田原、稲沢、河田、金丸等の諸族と共に、上那須衆三百余騎で、川井を経て熊田(元、下江川村大字熊田)に押し寄せた。
 佐竹義重の部将東将監政義、兵二千余騎を率いて進軍し、まず茂木次郎義政および千本常陸介の居城を攻め落し、続ケ谷(つづがや)、織部を打ち破って烏山に迫った。
 宇都宮広綱、那須氏に恨あるをもって、佐竹氏を援け、兵一千を出して、烏山の西、元神長(かなが)村の治部内山(じぶないやま)(神長小学校の西方の高地)に、那須勢の千本常陸介父子、森田弾正、金丸下総守、大金豊前守等を攻めて、戦利あらず、東将監二十余騎にて重囲に陥り、進退きわまったが、千本将監に勧めて降らしめ、もって資胤に囲を解かしめた。依ってこの地を世に降参岸(こうさんぎし)と称する。
 永禄十年(一五六七)二月十七日、上那須衆、去年八月の敗戦の恥辱を雪ごうと欲し、佐竹義重の援兵を求め、元境村五峰山の大崖山(おおがけやま)を、烏山の向城となし、那珂川を隔てて那須資胤に戦を挑んだ。佐竹勢は、南路次郎左衛門尉義郷(なんじじろうさえもんのじょうよしさと)、戸村十大夫義広、小場三河守義忠、長倉遠江守義尚、および武茂左衛門尉守綱、大山田弾正少弼綱胤、鳥子狩野介泰宗、横田十郎綱久、松野讃岐守篤通、石川大和守昭光、大金備後守重宣等総兵六千五百余騎。(下野国誌)義重自ら軍を督して、大崖山に陣を構えた。
 上那須衆は、大関を始めとして、大田原、金丸、稲沢、福原等、元興野村下の瀬を打ち渡って、大崖山の麓に陣を取った。
 資胤は森田弾左衛門資郡を将とし、大桶三河守重安、金枝近江守泰晴、熊田源兵衛高貞、岡太郎左衛門実一、高瀬大内蔵親定、河合六郎安利、薄井越中守以安等一千五百騎をもって、那珂川を渡って防ぎ戦わしめ、(下野国誌)資胤子息資晴父子、一千二百余騎を率い、別路より上那須勢の陣地を目ざして進撃した。
 木須大膳掾、本庄三河守、千本常陸守等三百余騎、稲積城より攻め寄せ、三面から佐竹勢を合撃した。佐竹勢諸軍振わず、義重戦の利あらざるを見て、同月十九日、兵を撤退した。資胤亦軍を烏山に旋した。この役、佐竹勢討死するもの二百二人、烏山勢二百二十四人であった。世にこれを大崖山の戦と称する。(那須記)
 同年四月十四日、佐竹義重、兵五千を率いて、再び下境に来り攻む。那須資胤、兵を本庄三河守盛泰の居城(稲積城)に遣わして防ぎ戦わしむ。大久保民部少輔、秋元越前守、同右京亮、同豊後守、金丸下総守、滝川泉蔵坊等之に属した。而して上那須勢、大関右衛門佐高増、伊王野下野守資宗、稲沢五郎左衛門、芦野日向守盛泰、福原安芸守資孝等四百余騎、佐竹氏と呼応して、烏山の城北、元滝田村の霧ケ沢に押寄せて、烏山勢と戦う。
 佐竹勢復た振わず、上那須勢また戦利あらずして撤退した。
 このように、上那須の諸族、佐竹氏の援を得て、屡々那須資胤を攻めたので、資胤の麾下興野尾張守隆徳、資胤に勧めて、上那須衆と和解せしめた。資胤これを諾したので、隆徳は上那須の諸族と会見して、資胤の旨を伝えた。大関高増先非を悔い、上那須の諸族にこれを諮り、烏山金剛寿院の住持尊瑜法師をもって罪を謝し、同十一年九月、和議全く成り、那須氏の領内始めて静謐に帰した。
 高増髪を削って入道安碩と号し(未庵と称したのは後のことである。)もって主家に抗せし罪を謝するの意を表明した。(那須記、野史 那須系図)