第七節 広瀬繩釣台の戦

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 永禄十年(一五六七)八月二十四日、那須資胤、常陸佐竹氏の領地を侵略しようとして、まず佐竹氏に属する梅ケ平(馬頭町)の大金備前守重宣を攻め落して、佐竹領内に侵入すべき謀を立て、森田、千本を大将として、麾下の兵二百余騎を差し添えて谷田(元七合村八田)の館野の領に進撃せしめ、資胤自ら将となり、大関、大田原、福原、稲沢、佐久山、川井、伊王野、金丸、高瀬、熊田、金枝、沢村、滝田、角田、阿久津藤九郎為幸、伊藤雅楽椽祐宗、木佐美孫三郎俊之、矢木沢土佐椽隆忠、内山治部助俊方、稲野兵庫助幸綱、鞍知輪四郎左衛門綱義、富田内匠家行、窪田善六時国、奥村三郎左衛門尉信光、本多左衛門尉寛光(ながみつ)、箕田弥惣吉、安藤弥五郎範経、簗瀬大膳椽宗忠、平野次郎左衛門永清、丸田友右衛門尉正信、黒沢与平衛尉満宣、中川団右衛門尉守忠、井上甚五郎仲満、花塚平治忠常、高橋吉郎高春、大町長左衛門尉泰貞、服部五郎盛継、風野四郎左尉門尉公清、矢野孫七資義、菊地兵助、瀬谷源内行経、益子源六行正、荒江弥惣次郎義高、石山太郎左衛門尉命安(のちやす)、真田孫四郎忠安、石原九郎左衛門尉命方(のちかた)、大木源三綱住(つなずみ)、宇野伊賀椽時基、余瀬平九郎国忠、鈴木三郎、辺見五郎保国、三本木甚八郎隆常、入江左近椽、須藤左太郎朝信、豊田与惣五郎光正、杉江源助義次、小堀勘左衛尉資光、於曽沢(おそざわ)弥右衛門尉光定、山田忠兵衛尉盛秀、小滝五郎資経、小森金蔵義房、町井右馬椽高宗、印南右京助忠範、薄井越前守行安等を始めとして、都合七百余騎を統率して進軍した。
 大金備後守これを聞き、広瀬繩釣(馬頭町字小口)に出城を構築し、嫡子対馬守に藤田和泉椽、笹沼因幡椽を添えて、百五十人を入れおき、自らは横矢に射取ろうと待受けた。
 資胤軍を帥いて、広瀬繩釣の西岸に迫る。大関未庵、先登那珂川を渡った。諸軍これに次ぎ、馬筏を組んで川を越し、城下に肉迫した。武茂右衛門豊綱急を聞き、大金備後守を救おうと手兵三百余人を提げ、赤坂を打ち越えて、内部の台より馳せ来る。那須勢援兵至ると聞き、川を越して兵を引き、佐良土表に駐まる。翌月資胤三百余騎を率いて矢倉に渡り、長峰を越えて萩草、矢野目沢の両所に放火し繩釣に攻め寄せた。那須勢これを見て大いに振い、再び那珂川を渡って進み戦う。会々先の武茂右衛門豊綱の援軍到着した。那須勢これを見て、佐竹の援兵大いに来るとなし、資胤諸軍を撤退せしめた。大金備後守敢てこれを追撃しない。世にこれを繩釣の戦という。(那須記)
(戦局は小さいが、会戦武人の氏名が多く出ているので参考のために記す。)