第八節 佐竹氏三度の出兵(那須郡誌より)

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 天正十一年(一五八三)那須資胤卒して、長子資晴嗣ぐ(那須系図説)資晴武略あり、切に兵を動かし、宇都宮の同族なる武茂城主武茂左衛門尉守綱および松野城主松野讃岐守篤通を攻めて、合戦止む時がない。
 同年二月、佐竹義重、水戸の江戸但馬守を攻め落し、次いで小田讃岐入道天庵を討ち滅して、常陸一国を占領した勢に乗じ一挙に那須氏を攻略しょうと欲し、武茂左衛門尉守綱及び大金重宣を嚮導とし、東将監を兵七千に将として、烏山城河原表に進出せしめた。資晴、大関右衛門佐未庵高増を始めとして、大田原備前守晴清、芦野大和入道意休、伊王野下野守資宗、同子息下総守資信、館野越前守直重、丸田友右衛門正信、興野尾張守隆徳、簗瀬半兵衛宗武、益子紀六郎行正、薄井越中守以安、稲沢五郎、佐久山四郎、高瀬大内蔵、浄法寺中務、余瀬三郎、大桶三郎、河合大膳等五百余騎、及び茂木次郎義政の勢八十余騎、塩谷安房守孝信の勢八十余騎、狩野、百村の野武士五百余人、総勢一千百余人を率いて奮戦し、遂にこれを撃退した。(野史、那須記、下野国誌)
 佐竹氏は前記のように度々那須の地をうかがってはその都度戦に敗れ、敗れては起請文を差出して和を溝じていた模様であり、その起請文が大田原市福原の金剛寿院に蔵せられているので参考のために左に掲げる。
(一) 佐竹義昭より、那須資胤へのもの
   起請之事
  一、自今以後無二ニ可申談事
  一、別而申合之上自今己後資胤江逆心之者不可有之事
  一、縁辺之必申合候上不及有違帯事付表裏不可有之事
  右之三ケ条至干偽者
  上ニハ梵天、帝釈 四天王 下ニハ堅牢地神
熊野三所大権現 春日大明神 日光三ヶ権現 当国鎮守 鹿嶋大明神 八幡大菩薩 摩利支尊天 惣而 日本六十餘劦 大小神祇 可蒙御罰者也 仍如件

   弘治三年丁己拾月十二日
            義昭(花押)
   那須 殿


写真3 佐竹義重より那須資晴への起請文
(福原金剛寿院蔵)

(二) 佐竹義重より、那須資胤へ
    起請之事
 敬白向後互ニ浮沈吉凶共ニ無表裏無二可申合付倭人申成も候者互可申承事
  若此儀僞候者
上者 梵天 帝釈 四天王 下者堅牢地神 熊野三大権現 日光三所権現 別当国鹿嶋大明神 八幡大菩薩 摩利支尊天 惣 日本国大小神祇則可蒙御罰者也

  仍如件
  元亀三季六月二十一日
            義重
  那須 殿
(三) 佐竹義重より、那須資晴へ
    起請之事
右意趣は度々證文渡申合於知向後も他不候 世上浮沈共資晴父子へ無二可申合候事付互之密事不有他意候 并倭人之取成候ハ、則糺明可申事 若此旨別偽む上は梵天 帝釈 四大天皇 下は堅牢地神 熊野三所権現 日光三所権現 当国鹿嶋大明神 八幡大菩薩 別而愛宕大権現 惣而日本国大小神祇◯可蒙御罰者也  仍如件

   天正十二年六月廿四日
            義重(花押)
  那須 殿
(この起請文はすべて熊野三山より発行された牛王宝印の裏面に記されている。なお宇都宮国綱よりのものも二通あった由であるが見当らない。)



写真4 佐竹義重の起請文 那須資晴へ
(福原金剛寿院蔵)