第九節 那須・宇都宮再度の合戦(薄葉原の戦)(那須郡誌より)

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 天正十二年(一五八四)塩谷郡川崎城主塩谷伯耆守義孝は、弟喜連川城主塩谷安房守孝信を攻めた。塩谷氏は宇都宮氏と同族であるが、安房守孝信は、黒羽城主大関高増の女を娶って、那須資晴に属し、屡々戦功があった。
 しかるに兄義孝は、宇都宮広綱の養女を娶って、宇都宮氏に属せしをもって、兄弟不和のためである。ここにおいて宇都宮弥三郎国綱、塩谷義孝の後詰として出兵した。佐竹氏また兵を出して宇都宮氏を助けた。
 那須資晴これを聞き、孝信を救わんと欲して出陣したが、佐竹勢烏山に押寄すと聞いて撤退したので、喜連川城陥り、孝信佐久山に遁れたから、義孝喜連川城を占領した。
 翌十三年(一五八五)正月九日、資晴、大関入道と謀って、塩谷伯耆守義孝の川崎城を攻め、喜連川城を奪還せんと欲し、塩谷安房守孝信を先鋒とし、手勢三百余騎を率い、沢村に出陣して、伯耆守と戦ったが、勝敗決せず、同月十四日、烏山に帰陣した。(那須記)
 翌十三年三月二十五日、宇都宮国綱(野史、下野国誌)これを聞き、資晴を討とうと欲し、塩谷伯耆守義孝を先鋒とし、紀清両党二千余騎、および壬生下総守義雄の二百余騎、芳賀入道の二百余騎、総勢二千四百余騎に自ら将として、沢村薄葉原に進軍した。(写真5)

写真5 沢村薄葉原から沢村城をのぞむ
(中央部右よりの丘陵)

 資晴報を得て、上下那須の諸族を催促し、千本常陸介、同十郎、森田五郎、本庄三河守、興野弥左衛門、滝三次郎、木須大膳正、滝田六郎、高瀬大内蔵、名和源七、和久四郎、菱沼大学助等百余騎を提げて先発した。
 尋いで大桶三河守、白久隼人、高岡弥三衛門、館野越前、佐藤和泉丞、上川井出雲守、荒井駿河守、上川井大膳正、同下総椽、熊田源兵衛、岡本太郎左衛門、須藤弥左衛門、金沢近江守、入江左近丞、浄法寺中務、福原安芸守資孝、佐良土宮内少輔、その勢三百余騎、沢村小丸山谷に出陣した。(那須記)
 上那須の諸族には、大関安碩入道高増、子息清増、稲沢播磨守、伊王野下野守資宗、大田原備前守晴清、芦野日向守盛泰等三百余騎、及び佐久間左衛門、塩谷弥七郎孝信等沢村薄葉西ノ原に出陣した。塩谷弥七郎孝信は、那須勢の先峰となった。他に狩野、百村の野武士百五十余人、都合那須勢一手余騎と註せられた。(那須記)
 両軍殊死して戦う。伊王野下野守資宗の家臣鮎瀬弥五郎、宇都宮勢の牙営に討ち入り、将に総帥宇都宮国綱を撃とうとしたが、資宗命を近臣薄羽備中に伝えて制止せしかば、国綱わずかに身をもって免れ、終に総軍潰走して宇都宮に退却した。資晴逃ぐるを追うて氏家に至り、在家に放火してまた軍を撤去した。資宗の国綱を逃れしめたのは、北条氏の鋭鋒野州に及ばんことを恐れ、宇都宮を存在させて、その第一防禦線たらしめようと欲する遠謀に出たものだという。これより宇都宮氏また那須氏をうかがわない。世にこれを薄葉原の合戦と称する。この戦により宇都宮所属の喜連川、泉、山田、宇津野、乙畑、鷲宿の小城悉く那須氏に帰した。(継志集による。那須記には詳述せるも、野史、下野国誌と相違する点甚だ多い。)