那須資晴は、常陸の佐竹義重と戦ってしばしばこれを退け、又宇都宮国綱を薄葉原の戦に破って、その同族塩谷氏の所領である喜連川、鷲宿の地を併合し、武威近隣に比べるものがないほどであった。
福原金剛寺院の住僧宥弁阿闍梨の勧に従って、佐竹氏と和睦し(那須系図説に由る。野史に金剛寿院尊瑜とあるが従わず。)妹を佐竹義重に遣して、両氏年来の抗争は全く終熄するまでになった。
豊臣秀吉、天下の郡雄を従えて、覇業殆ど成ろうとしたが、関東に北条氏政、氏直父子があって、相州小田原城に蟠居し、あえて秀吉の命を奉じようとしない。佐竹常陸介義重、那須修理大夫資晴等、またひそかに款を北条氏に通じて、また秀吉の命に従わなかった。
天正十八年(一五九〇)三月、秀吉は兵を率いて小田原を攻めた。東国の諸豪は皆小田原にきて秀吉に逢い忠誠を誓ったが、資晴は行かなかった。
大関右衛門佐高増、大田原備前守晴清、福原安芸守資孝、千本大和守義貴、芦野日向守盛泰、伊王野下総守資信等は相談のうえ、秀吉に恭順の意を示そうと、資晴に勧めて同行を求めたが聴かなかった。そこで六騎相ならんで、小田原の行営にゆき、唯(たゞ)命に従うことを乞うた。
秀吉は大いに喜び、各々本領安堵の沙汰を下賜された。
同年八月、秀吉は更に奥州を平定しようとして、下野にくだり、同月十五日、軍を小山まで進めたとき、資晴が始めて見参した。秀吉はその遅参を怒り、食邑八万石を歿収して、大関、大田原、伊王野、福原、芦野、千本等に分け与え、僅かに旧邑福原の地、五千石を給した。
一時織田信雄を烏山の城主としたが、後これを成田下総守氏長にたまわった。(那須記に信長の孫秀信に賜わったとあるのは誤である。)資晴は烏山城を開退して、佐良土(湯津上村役場の東南方に旧址がある。)に移った。(野史、烏山町誌、下野国誌)
天正十八年(一五九〇)、秀吉奥州下向にあたり大田原備前守晴清の居城大田原城に宿泊したとき、備前守は資晴の子息藤王丸、生年五歳であったのを引き連れて、秀吉に面謁させた。そこで秀吉は藤王丸に五千石を賜わったので、藤王丸は佐良土から福原に移った。(那須系図説)ここにおいて、貞信以来子孫繁栄して、東国の豪族であった那須氏も、主従その位置を転倒して、父祖の偉業は全く地におちるとともに、那須七騎の名、世にあらわれるようになった。
資晴は佐良土に退隠の後は、ひたすら恭順の意をあらわし、文禄元年(一五九二)秀吉征韓の師を起したときは、兵を率いて名護屋の陣営まで行き、(野史)秀吉の死後は心を徳川家康に寄せた。慶長五年(一六〇〇)上杉景勝が会津に叛したときは、家康はこれを平定しようとして自ら兵を率いて同年七月(継志集に五月十九日とあるが、家康の伏見城を発して江戸に入ったのは七月二日であるから、従うことはできない。)下野小山に来た。那須七騎はこれを迎え、各々人質を送って二心のないことを示した。資晴は家臣大俵周防の娘、森田弥市郎の娘、高瀬弥六の娘、角田庄兵衛の娘を送って質とした。(継志集)それから後は家康に仕えて甚だ忠実であった。慶長七年(一六〇二)家康は資晴を憐み、五千石を加賜して候籍に列した。
同九年従五位上に敍し、大膳大夫と称し、更に修理大夫と言い、同十四年六月卒した。
年五十四、子資景が後を継いだ。(野史に由る)