第十一節 那須氏の一族と没落後の那須氏(蓮見長著、那須郡誌より)

249 ~ 252
 那須氏から出て、本郡の豪族となり、代々本宗那須氏の羽翼となったものは頗る多く、その主なるものは左のとおりである。
 森田氏 (南那須町大字森田)旧の字を略す
 福原氏 大田原市佐久山
 千本氏 芳賀郡須藤村千本
 伊王野氏 那須町伊王野
 芦野氏 那須町芦野
 稲沢氏 那須町大字稲沢
 金丸氏 大田原市南金丸・後黒羽町片田
 木須氏 大木須
 興野氏 烏山町興野
 浄法寺氏 小川町浄法寺
 小滝氏 大田原市小滝
 熊田氏 下江川村熊田
 荻野目氏 大田原市大字荻野目
 金枝氏 喜連川町大字金枝
 白久氏 烏山町大字白久
 羽田氏 大田原市大字羽田
 牧野氏 南那須町大字大里
 月次氏 下江川村大字月次
 川井氏 下江川村大字上川井、又下江川に下川井氏あり
 簗瀬氏 那須町大字簗瀬
 滝田氏 烏山町大字滝田
 大桶氏 烏山町大字大桶
 以上の諸氏中、資晴が烏山を開退したのであるいは他の那須七騎に臣事し、あるいは零落して帰農した。ために那須郡にはこれ等那須氏の後裔がはなはだ多いといわれている。
 なお資晴の長子を資景という。幼名は藤王丸といひ、福原に住した。慶長十一年(一六〇六)従五位に叙され、左京大夫と称した。釆邑一万四千石を食み、大阪冬夏二陣に戦功があった。
 那須継志録(鮎ケ瀬氏蔵)に大阪首帳を載せているが、那須左京大夫資景七十五。大田原備前守晴清七十三。大関弥平治政増七十余。千本大和守義貴三十八。伊王野又治郎資朝三十四。芦野民部資泰三十一。福原安芸資孝(次代雅楽頭資保ではないか)二十二とあって、その戦功を察することができる。後、事に座して邑三千石を削られた。(野史)寛永元年(一六二四)老令となったので子資重が後を嗣いだが、同十九年七月、父に先だって卒した。年三十四。子が無かったので継嗣のことで家中内紛があり、五十人方二十人方の両派に分れて互に抗争したが、遂に五十人方の勝利となり、増山弾正正利の弟権之助をもって後を継がせ、那須左衛門尉資祗といった。将軍家綱の伯父(資祗は将軍家綱の生母、於良久の方の弟に当る)に当るので、次第に秩禄を増して、二万石となり、遠江守に任ぜられ、天和元年(一六八一)福原から烏山城に移り、家勢はいよいよ振った。(那須由緒、那須系図説)貞享四年(一六八七)六月二十五日、資祗病気のため卒した。長子正弥(まさみつ)(兵部小輔と称す)は早く出でて、下館の城主増山弾正正利の嗣となり次子は早世したので後嗣がなく、津軽越中守信政(資祗の姉婿)の次男主水(資祗の甥)を迎えて家を継がせ、与一資徳と称した。ところが資祗に庶子福原図書資豊というものがあり江戸に上って、伯父平野丹波守長政をもって、資祗の実子である故家督相続の権があると幕府に訴え出た。そこで将軍家綱は大いに怒って、資徳を実家津軽越中守信政方に幽閉し、資豊を平野丹波守に預けられ、貞享四年(一六八七)十一月十六日、烏山城を没収した。(那須系図説)
 元禄十四年(一七〇一)資徳赦されて福原の旧邑一千石を賜わったが、候籍を除かれて家運頓に落魄し、邸を江戸(本所二ツ目、元誓願寺前)に構え、宝永五年(一七〇八)六月二十五日卒した。それより資隣、資虎、資明、資礼、資興に伝えた。資興、明治維新の際、福原陣屋に住んでいたが、同二年集議院司典に進み、同三年七月死去した。累世武をもって天下に聞えた名家も、今は衰微して、僅かにその俤を士族の名に止めるに過ぎない。
(烏山町誌)