第一節 大田原氏の家系について

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 大田原氏の家系について人見伝蔵氏は大俵編年史に次のごとく記している。
 大田原氏の先は、宣化天皇の皇子上殖葉王より出づ。その子十市王の子多治比古王は、その生れし時、家人湯を沸して将に之を洗はんとせしに虎杖(いたどり)ありて釜中に泛べり。以て奇異となし邦俗虎杖を「たぢひ」といひ「彦比古」ともいふ。故に之に多治比古と命名す。その子を島といふ。天武天皇詔して姓多治比真人を賜ふ。その父の名に因めるなり。島四子あり、季を広成といふ。聖武天平四年(七三二)唐に使し因りて自ら多治比を改めて、丹墀(たぢひ)と為す。広成の子貞峰、清和の時武蔵守と為る。子峰信武蔵守と為る。五世の孫(広成八世の孫)を武信といふ。元慶中罪あり、武蔵国に貶謫せられ子孫竟に之に住めり。実に武蔵七党の一にして世に丹党と称するもの是なり、
宣化天皇―上殖葉王―十市王―多治比古王―多治比真人島―広成―貞峰―峰信―峰時―峰房―○―武信―基房―○―恒房―実平(実光)

其後を秩父基房といふ。孫恒房が二男刑部丞実平(一云実光)に至り賀美郡安保の地頭職に補せられ承久中宇治の役に戦死す。その子孫世々氏を安保と称せり。貞治年中安保信濃といふもの佐々木道誉の与党によりて領邑を失へり。其胤を忠清といふ。氏を大俵と更む。之を中興の祖となす。応安五年(一三七二)十二月三日死去年六十一、その子忠明、永忠、長清、吉清、定清、重清を経て康清に至る。明徳三年(一三九二)十月初めて上那須に移る。(以下二行空欄)
子二人あり長子信清右衛門尉と称す。次子行定、助次郎といふ。下庄大俵の祖とす。子なし次清、高清を経て胤清といふ。出雲守と称す。(以下二行空欄)
 按ずるに大田原家系図に二種あり。一は大田原君候系譜と題し故阿久津忠義翁手写のもの、一は故大田原信衛氏蔵本にて大田原系図と題するもの(之を仮に異本といふ)又別に御由緒書といふ、文政中川上正則の書写せしものあり。此三書に就きて比較研究するに大田原君候系譜は、
 丹治姓 大田原
人皇五十一代平城天皇之皇子阿保親王五男在原業平後胤丹治忠清大俵備前守住干武州阿保此代初而称大俵中興之祖也

忠清初代として忠明、永忠、長清、吉清、定清、重清、康清、信清、次清、高清、胤清に至れり。
   異本大田原家系図には、
平城天皇、安保親王、業平、棟梁、元方、範清(安保号)師行、師良、師国、師光、師真、師賢、師秀、師村、師重、師乗、義昌、師英、師親、師易、師信、師盈、師房を経て師吉尊氏に従ひて戦功あり。従五位肥前守に叙し武蔵国守に任ず。文和四年六月下野、奥州の守護に任じ本領の外阿保、府中、下野那須野之内大俵、上下鹿野五千貫の地を領す。感状文あり、(師吉子なし)弟忠行阿保家を嗣ぐ。其子忠清貞治三年六月伯父師吉奥州下向の節尊氏公以上意武州移府中守安保後大俵称此代祖也、応安五年十二月卒六十一

とありて忠清より康清まで大田原君候系譜に同じく康清条下
明徳三甲寅十月始那須移上大俵之内神宿作堀内祭天照大神屋敷裏也業平之天神祭北那須上下之庄分乱之時従鎌倉以上意和談人也従此時与那須為通用也

と記し以下大田原君候系譜と同じ(以上人見氏の文)また川上家所伝御由緒書というは寛永二十年(一三四三)家氏姓系図改めの令あり徳川幕府は諸大名に令して家譜を書き上げしめたが正保三年(一六四六)冬備前守政清は祖先発祥地である、武蔵国児玉郡横山郷に家臣某等を遣はして往古の由緒を調査せしめたるものといえり。
   由緒書を摘記すれば次のようである。
人皇五十一代御宇平城天皇之皇子阿保親王之後胤正三位前経房故ありて信濃国諏訪郷に住す、十四代の孫備前守忠清といふ。治承中武蔵国児玉郡横山郷に移る。源頼朝の麾下に属し横山郷三百町を知行し年七十二卒す。子二人あり、兄庄太郎宣清児玉郡の内を領し、弟庄次郎貞清は横山郷の内を領す。宣清二十八才にて死し子なし。貞清本系を継ぎて児玉、横山両庄を併領す。児玉左京亮と改む、嫡子兵庫良清、その子外記基清、中務武清、兵庫智清、監物昌清、兵庫信清、又左エ門尉泰清、左兵エ尉為清、その子は乃ち胤清左兵エ督と称す。文明十一年(一四七四)足利義政の命により下野福原郷前室村水口に移り、居館ここに構ふ、那須高資に仕へ被官して出雲守と称す、永正十一年(一五一四)二月三日逝去、法号明庵道光大禅定門年六十八去二

また挿入せる紙片に
寛永系図伝多治比姓大田原条に
本は丹治氏武州にありて丹の党と称す、時に平の姓となる、又阿保と号す、上野国に住し、後大田原にうつり居りてすなはち称号とす、今又丹治の姓となる。とある。さらに
一、丹治姓
二、平姓
 十八代典清大和式上実芝村藩主織田小十郎平政時長男十七代高清養子
三、阿保姓
 人皇五十一代平城天皇之皇子阿保親王五男在原業平後胤 住武州阿保
四、藤原姓
 系図云、二十一代飛弾(騨の誤か)扶清近代有故為藤原姓之処復往古又当代為丹治姓

と記してある。
 また人見氏は大田原景賢誌で、大田原氏は宣化天皇よりの出となすことを主張されている。
 前者は日本書紀宣化天皇の条にある次の記事に基づき、「たぢひ」の名の起こりよりの説で、さらに新撰姓氏録によりその系譜を調べた上のものではあるが、はたして武蔵の豪族丹治氏の一族であるかどうかについては、なお研究せねばならない問題である。
前の正妃億計天皇(二十四代仁賢天皇)の女橘の仲つ皇女を立てて皇后とせむ。是れ一男三女を生みたまふ。長(あね)を石姫皇女と曰ふ。次を小石姫皇女と曰ふ。次を倉稚綾姫皇女と曰ふ。次を上殖葉皇子(かむえはのみこ)と曰ふ。亦の名は椀子(まりこ)是れ丹比公(たぢひのきみ)、偉那公(いなのきみ)、凡そ二姓の先なり。(以上読み下し文とする。)

次に後者は前記のごとく多少の相違ある幾通りかの系譜があるが、次の事情に基づくもので、これを念頭に置いて検討する要がある。
 徳川家康が天下を手中に収めるとその勢威の確立と永読を図るためまず自家は源氏の正系であることを一般に認めさせるためその系譜を整え、また諸候、旗本にも各の系譜を提出させた。それを整備したものが寛永諸家系譜伝である。しかし当時の諸候、旗本達の大部分は戦国武士よりの成上がり者、従って古代よりの家系なぞわかりようもなく、その大部分は精々三~四代を記した程度であったため幕府はさらに精密なものの提出を命じた。正保三年(一六四六)大田原政清が家臣某を旧地と言われる武蔵国に遣わして調査させたのもそのためであろう。大田原氏の場合は一応調査のよりどころがあってのことであると思うが大部分の者は調査のしょうもなく、そのため「系図書き」なるものに依頼して己の系譜を作製したといわれる。このようにして作られ提出されたものを寛政十年(一七九八)より文化九年(一八一二)に至る十五年を費して作製したものが寛政重修諸家譜で普通略して寛政重修系譜といわれる。後者の大田原氏系譜はこれを書き写したものである。
 このようにして作られたものであるから、そのまま信じてよいかどうか。ことに武蔵国阿保庄に住み阿保(安保)を姓としたとのことより、平城天皇の皇子阿保親王に付会してのものかとも考えられる。
 一方前者の場合も平安朝末期から鎌倉初期に武蔵国に勢力を持っていた武士団の中のいわゆる武蔵七党(丹治(たぢひ)、私市(きさいち)(野与)、児玉、猪股、西、横山、村山)の一、丹治党(丹の党ともいう)よりの出とする点から、前記のように宣化天皇の四代、五代孫が多治比を称したことと結びついての考え方とも思われ、いずれが正しいか、あるいは両者とも誤りか、については早急には断じ難い。
ただ代々丹の党の一支族(あるいは輩下)として武蔵国に住し、幾度かの戦に参加したであろうことは考えられるが、系譜にあるように名主であるなどという点については、信じ難いことである。(丹治氏の一族に大田原はない。)
 なお人見氏の記事中「貞治年中安保信濃といふもの佐々木道誉の与党によりて領邑を失へり」とあるも、貞治年には尊氏、道誉ともに没しており、(尊氏の子義詮に大田原の祖は信頼され重視されておったというなら別である。)一方道誉は近江佐々木氏、尊氏存命中は共に勢力を競い利用しあった仲であるが義詮の代にはその勢力を押えることに努めており、その与党達に己の信頼する家臣の領邑を奪わせるようなことを許したとは到底考えられない。
(前者の系譜)
宣化天皇―上殖葉王―十市王―多治比古王―多治比真人島―広成―貞峰―峰信―峰時―峰房―○―武信―基房―○―恒房―実平(実光)―……………―忠清―忠明―永忠―長清―吉清―定清―重清―康清―信清―次清―高清―胤清―資清―網清―晴清―政清―高清―典清―純清―清信―扶清―友清―庸清―光清―愛清―広清―富清―一清(勝清)

(後者の系譜)
平城天皇―阿保親王―在原業平―棟梁―元方―(範清―範方―師方)―師行―師良―師国―師光―師興―師真―師賢―師秀―師村―師重―師乗―義昌―師英―師親―師易―師信―師盈―師房―師吉―忠行(師吉の弟)―忠清―忠明―永忠―長清―吉清―定清―重清―康清―信清―次清―高清―胤清―資清―綱清―晴清―政清―高清―典清―純清―清信―扶清―友清―庸清―光清―愛清―広清―富清―一清(勝清)

(付記)
1、阿久津家系譜には平姓丹治阿保と記してある。
2、扶清の代には元来藤原姓なりしも故あって丹治姓に復したと記してある。
 平安末期平氏が繁栄した時期には平氏の後裔なりと称し、織田信長の勢い盛んな時期には平姓を称え、また藤原氏一門の勢威ある時期には藤原姓を名乗ったものではないだろうか。
 荘園制末期、戦国期、さらに江戸時代における新興勢力家たちはその支配力を増大確保しようとして各自にその系譜なるものを作り上げている。大田原氏の場合も一応それを念頭において考慮する要がある。
3、前記系譜についても参考文献記載事項中数々の疑問点があり、この点さらに今後の検討を要するように思う。



大田原家略譜