第二節 大田原氏の姓氏考

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 大田原氏、元は大俵をもって姓となし、資清の代大田原と改めたといわれる(那須郡誌、人見博蔵遺稿、大田原系譜)。この点は正しいかと思われる。ただ前記の書はすべて大俵の姓は忠清よりとしているがこれについてはいささか疑問がある。それについて前記大田原二系譜に記されていることをさらに検討してみよう。
 まず寛政系譜、師吉の条には次のように記してある。
源尊氏公数度以忠勤貞治三甲辰年五月初而為上洛勤近身故任五位其上武州為国司行平御剣拝領文和四乙未年六月下野、奥州守護下向本領武州阿保同府中下野内大俵上、下鹿野合五千貫拝領勘状證文有之也

またその甥、忠清のところには
文和四年二月五日山城国山崎神南戦義詮朝臣旗本迄敵懸崩義詮卿於左右見而近寄於敵追払与在干時十騎抜連干敵烈舗戦少於白所見而忠清所立之矢折懸取返而敵後□待近赤松手之者掴居待以御下知手之者懸□者追崩可申与言義詮卿即座賞働有合橘給一残而置今日利運験為可残末代家紋干曰依丸橘紋改貞治三年六月伯父師吉奥州下向之節尊氏公以上意武州府中移守阿保後大俵称此代祖也

とある。
 まず以上二人の記事そのものに誤りがあることに気づく。師吉が尊氏に忠勤し貞治三年(一三六四)六月初めて上落し武州の国司に任ぜられ、行平の剣を拝領、さらに文和四年未年奥州下向の節本領武州阿保同府中、下野国の大俵、上下鹿野合わせて五千貫の地を拝領しその感(勘)状証文がある。と記してあるがこれは義詮よりもらったものなら別だが、尊氏よりのものとするとそれは誤りである。貞治三年(一三六四)は尊氏没(延文三年、一三五八)後のことで、あるいは貞和三年(一三四七)の誤記かもしれない。
 さてこの両者の記事より大田原氏の祖の本領は武蔵国(埼玉県)阿保であること、そしてその地の名を姓としていたことは大体間違いないかも知れない。当時姓はその住地の名をもってしたものが多く大田原氏も例外ではあるまい。しかるに忠清の代に居所は府中に移したるも依然阿保は確保しており、この点より後に賜わった大俵の地の名をもって姓としたかは疑わしい。これは大俵姓を名乗ったことの古さを誇ろうとしての作為であろう。
 なお大田原の地名は大田原(大俵)氏が武州からこの地に来たことによって起ったとする説もあるが、前の記事から見てそれは全くの誤りで元来がこの地に残っていた地名である。(応仁二年(一四六八)十月、連歌師飯尾宗祗の白河紀行の文中に既にこの地名がある)
 大俵をもって姓としたのは康清が武蔵国からこの地に移ってから後のことであり、前記系譜康清の条に次のように記してある。
明徳三甲寅十月始而那須移上大俵之内神宿作堀内祭天神(人見伝蔵 大田原史料 君候系譜には天照大神とある)屋舗裏也業平天神祭北那須上下之庄分乱之時鎌倉以上意和談人也従此時與那須為通用

この文中の明徳三年とあるのは明らかな誤りで、北朝明徳三年(一三九二)に甲寅はなく、それに父重清は延徳二年(一四九〇)六十七才で没しており、明徳三年(一三九二)はこれよりも九十八年も前で年代的に全然合致しない。(明応三年(一四九四)甲寅がある。)
 なお一書(大田原異本系譜)には重清は文明十八年(一四八六)二十五才にて没すとあるが、これは明応三年(一四九四)(仮に明徳が明応の誤りであるとみて)より六年前で、康清は精々六~七才、これより六年後は十二~十三才、この弱輩で鎌倉の上意により那須氏内部紛争の和談人となる、などとは到底考えられないことである。
 以上は人見氏及び岩瀬氏の遺稿をもとに書き記したものであるが、系譜を読む場合には単に年代の誤を訂正して解釈することは更に誤を重ねることともなりかねないと思うし、系譜そのものが後代になって書かれたものであることに注意しなければならないように思うのである。