康清が先祖以来の故地たる本領武蔵国阿保並びに所領府中の地を捨て、遠いこの地に来住したのはいかなる理由によるのか。これについてはあまり考察されていない。
康清がこの地に来た明応三年(一四九四)は応仁の乱(一四六七)後、十七年、幕府(室町)の威令は地におち、関東管領は古河、堀越両公方に分かれて対立、執事上杉氏も山内、扇谷の両家に分れ、その家臣太田持資(道灌)、長尾景信(昌賢)が主家に代った実力者として争いを続けており、世をあげて下剋上の風潮いよいよはなはだしく、最早おのれの力にたよるのみの実力万能の戦国時代の初期にあたる。
伊勢国の浪人新九郎長氏(後の北条早雲)が両公方の争いの間隙に乗じ、伊豆一円を掠奪し、さらに大森藤頼を駆逐して小田原城に入城したのもこの年である。
両公方の争いは上杉、太田、長尾、さらには駿河の今川、関東の簗田、里見、小山、小田、結城、宇都宮、那須、奥州の白河、岩城など諸族の争いへと発展し、武相の地はその中心地となって戦乱の絶える時とてなく、弱小諸族はいかにしておのれの維持を図るべきかに日夜心の安まる時がなかった、武蔵府中のごときはしばしば両公方軍の戦場となり、最早大田原氏(安保氏)の所領として支配するなど思いもよらず、本領阿保(阿保が本領であるという点にも疑がある)とても安住の地であることはできなかった。
一方那須野の所領大俵、鹿野の領内も荘園制末期の様相を呈し、農民中の有力者達はそれぞれ館を持ち住居の周囲には堀をめぐらし土塁を築き武器を備えて防備を堅め、付近をおのれの勢力に収めつつあった。町島豊後、荒井志摩、舟山甚兵衛(白井家文書)のごときもそれであろう。さらに堀籠笠間氏その他堀の内の地名のある場所はいずれもそれらの者達の居館跡であったのであろう。
さらにその周囲には上下に分かれた那須氏の争いと上那須氏の勢力拡張のため、上那須の地のはとんど大半は那須家およびその支族の支配地たらしめようと武威をみがき、また西南には宇都宮氏あり、北方に白河氏、岩城氏ありこれら諸族の争奪地として、那須野の地もまた戦乱の絶ゆる時とてなかった状態ではあったが武蔵国の所領は最早維持し得べくもないことを知った康清はその徒党数名を引き連れ、那須家を頼って諸豪族達の本拠より離れ、しかも稍生産の適地と思われる上大俵神宿(上宿)あるいはその北の堀の内を選び居館を築いたものであろう。
なお舟山甚兵衛居館址と思われる場所は富池舟山登谷の最高部(富池温泉神社北部高地)にある。さらにまたその居館主が何人であるか不明であるが萩の目居館址と乙連沢城址とあり、ことに後者はその規模は大田原居館址にも匹適する広域を持ちその昔の勢力の程もうかがわれる。
以上のことから考察して康清がこの地に移住した理由はおのれの勢力維持、さらには増大を図るには武蔵国では望みなく、ここ那須野ならまだその余地ありとの考えによるものであろう。
しかし康清移住の理由も前記大田原氏の系譜を一応信用しての上のことではあるが、これについても今後大いに研究を要することであり、「大俵上下鹿野五千貫拝領」の言葉そのものを研究せねばならぬように思う。
それは那須の地は明らかに那須家の所領であり、時代により那須家の勢力の消長はあったにしても、後世大関氏あるいは大田原氏の所領となるまではその大半は那須家およびその支族の者達の所領であったことから考えても、このことは言い得ることであるように思うのである。
なお前記系譜記載の「那須上下分乱之時鎌倉以上意和談人也此時與那須為通用」とあるが到底信じ難い。当時鎌倉の北条成氏は幕府の忌諱に触れ駿河の守護今川範忠のためその邸第、府庫などをことごとく焼きつくされ、古河に逃れた後のこと、彼には当時康清に和談人たる地位を与えて地方豪族たる那須氏に臨ましめる勢威など全くなく、これは大田原氏が後世系譜作製時の作り文句か、あるいは康清がおのれを飾るために称した言葉をそのまま記したものとしか考えられぬ信ずべからざるものである。
康清の来住事情については前記のことが考えられるがさらに那須氏との関係はどうであろうか。当時那須氏は宇都宮、結城、白河、岩城の各氏との抗争に明け暮れ、さらに上、下に分かれた両那須氏の間にも争いがあり、上那須氏はおのれの勢力維持、増大のためには強力なる味方を必要としたであろう。一方康清にしてみれば、この地へ来て那須氏と争っても到底及ぶべくもなく、それよりむしろ那須氏と歩調を合わせ漸次おのれの勢力増大を図ることこそ賢明な道と考えたであろうかも知れず、このように両者は各その本心に相違あっても共に協力していくという点では一致し、来住前に打合せができていたかもしれず、いきなりこの地にきたものではないかとも思う。従って両者は単なる主従関係、すなわち家臣として那須氏に仕えたのではなく、それは信長および秀吉と家康との関係に近かったものと考えられる。なおこれは那須、大関氏関係も同様であったであろう。このようなことはその後大田原氏は那須氏と近縁関係者となり、両者の間はさらに緊密となっていったことよりもうかがわれ、当時広く行なわれた政略結婚の一つとのみは考えられない。