有故而出那須到干越前国永平寺是時資清見国司朝倉氏一談如旧相識干時朝倉問関東兵法資清答曰関東之兵法無他但進退称時而巳曽聞公以強為本是兵家之〓恥也朝倉曰公言善矣他日為我戒也其後資清自朝倉得加勢再還郷国、云云
さらに人見博蔵氏は次のように詳記している。
永正十五年(一五一八)十月山田(堅田邑)城主大関宗増、福原資安と謀り、讒を構へて資清を罪に陥れた。那須資房之を殺さんとす。資清恐れ兵を挙げて奸臣を除かんとし、却って宗増等の来り攻むるに会ひ戦利あらず資清妻子を携へ水口館を逃れた。実に永正十五年(一五一八)十月九日である資清乃ち塩谷邑館野川長興寺に入り麟道和尚により得度して永存と号した。長興寺は七百五十年宇都宮朝業入道信生法印の開基三百年前火災にかかり焼失、玄的和尚これを再建して中興の祖となる。信生は源実朝の歌友である。麟道和尚は永存の長兄である。永存時に年二十二歳であった。一日麟道永存に告げて曰く、永平寺は宗祖道元禅師開創の霊場である。汝往きて己事を参究せよと。永存乃ちその臣岡本角左エ門を従へ、諸国を行脚して永平寺にいたった。ある日越前国城主朝倉孝景(諸書高弘、義景などとするは非なり)永平寺に墓参して(城主より領主可ならん、孝景は隆景ならん)永存衆僧中にあり其風釆の非凡なるを見、之を主僧に問う。主僧告ぐるに実を以てした。孝景乃ち之と語り一見相識の如くであった。孝景問ふ、関東兵を用ふるの法如何。永存答へて曰く、東国の兵法は他なし、ただ進退時に称(かな)ふのみ。かつて聞く、公は強を以て本と為すと、これ兵家の恥ずる所であると、孝景曰く、公の言や善し。他日以てわが戒となさんと。これより屡々城中におもむき款情いよいよ親密を加へた。孝景いふ。吾請ふ兵を貸さん、速に国に還りて復仇を計れと。坊地佐渡守安家をして騎五十歩卒二百を以て援けしめ小山に至った。旧知相応ずる者多く三百騎を得、宇都宮に進むと旧臣阿久津正九郎清幸之を迎へた。また益子喜四郎、芳賀左兵衛等三百騎を以て之を援けた。塩谷川崎城主塩谷氏にたより伊王野城主伊王野資直もまた兵を出して応援した。天文十一年(一五四二)十二月永存川崎城を発し大和久村桜岡対馬方に到り兵馬糧食をととのへた。たまたま大関増次その臣五月女越後増行、大沼弾正泰致等兵数十を以て金丸山に狩猟するを偵知し、永存兵を潜めて之を囲み大呼して曰く、弥五郎来り戦へ、大田原助九郎貴清、今日仇を報ずと、増次事不意に出で驚惶策の出づる所を知らず。石井沢鯉塚に遁れた。永存之を追ひ火を茅野に放った。増次進退谷り遂に自決した。越後乃ち主君増次の首級をあげ、自ら腹を割いて之を納れ、俯伏して殉じた。弾正は敵兵を鯉塚坂上に拒ぎ増次自尽の余裕を得しめまた戦死した。増次時に年二十五才。実に天文十一年(一五四二)十二月二十日であった。異本大田原系図に天文十四乙巳(一五四五)正月廿七日とあるは誤りである。又異本大田原系図に永存増次を黒羽城に攻めた。増次物見櫓より、城下を見渡せば敵兵雲霞の如くおし寄せたので一矢も放たずして自害したとある。一説として之を記す。
永存は兵を整へて黒羽城に入り、その土地および人民を領域に収めた。これによって増次の父入道宗円の請を容れて和議を講じ、また福原五郎資安を誅伐しょうとしたが金剛寿院尊瑜が仲にはいり百方助命を願ひ、那須資親また和解につとめ、資安は髪を剃って高野山に入った。永存は長子熊光丸を大関氏の家系をつがせ、次子資保に福原氏を嗣がしめた。永存は大田原氏を再興し、還俗して名を資清と改め備前守と称し那須資親の家宰に任じた。
思うに大田原、大関両家の攻争はどのような事情によったものであるか、之を究明することは大変重要な問題ではあるが大田原にあっては此等に関して詳細に記述した文献はない。
大田原系図に
有故而出那須致干越前永平寺
と記し、異本大田原系図(以下異本系図とする)には
創垂可継はこの抗争の原因について次のように記している。
と、即ち弥五郎増次は資清が那須家に逆心を抱くことを知り、資房に密訴した。資房が資清を討とうとしたので資清は髪を削って仏門に入り、その罪を謝したというのである。また那須誌には次のように記してある。
と、これは資清が大関、福原の奸計の為に那須家に誣告したのを憤り、こらしめのために兵を起したが勝てず、亡命したというのである。この那須誌は何人の撰であるかは知らないが、伊王野家に関する記事が比較的詳しく記されている所を見ると、同家に由緒あるものの撰述であって、大田原、大関両家の係争に関しては少なくとも中立公正の態度を持したことが知れる。かつまた那須誌の記事が異本系図に符合する点から考へて両家の争った原因は宗増の猜疑に端を発したものではなかろうかと思う。
なお可継の記事について誤っていることは弥五郎増次をもって資清の敵相手としていることである。増次は美作守宗増の嫡子であって天文十一年(一五四二)十二月二十日石井沢に自殺した時に二十五歳であったこれより逆算すれば永正十五年(一五一八)生まれとなる。而して宗増が資清を水口館に攻めたのは異本系図の永正十五年(一五一八)の十月であるから増次はちょうどこの年に誕生しているのである。而して宗増は大関系図に天文十三年(一五四四)三月十八日、八十二歳病死とあり逆算すると寛正四年に生まれて永正十一年(一五一四)には正に五十二歳であった。即ち資清の非望を那須家に密告したものは勿論増次ではなくその父宗増であったことはまちがいないことである。元来創垂可継は大関美作守高増七代孫土佐守増業の編著で歴世の事歴封域の沿革などを記し、もっとも信頼することのできる筈の可継が、このような重大な誤謬を敢てしたことは、偶然か杜撰も甚しいように思うのである。
人見氏は記している。次に「朝倉孝景の調停」と題して次のように記している。
大田原資清は水口を亡命後諸国を行脚して越前永平寺に留まり越前国主朝倉孝景の知遇をうけその好意により援兵を得て国に帰り復仇の挙を遂げたことは大田原系譜、異本系図にも記載されている。
永存は兵を整へて黒羽城に入り、その土地および人民を領域に収めた。これによって増次の父入道宗円の請を容れて和議を講じ、また福原五郎資安を誅伐しょうとしたが金剛寿院尊瑜が仲にはいり百方助命を願ひ、那須資親また和解につとめ、資安は髪を剃って高野山に入った。永存は長子熊光丸を大関氏の家系をつがせ、次子資保に福原氏を嗣がしめた。永存は大田原氏を再興し、還俗して名を資清と改め備前守と称し那須資親の家宰に任じた。
思うに大田原、大関両家の攻争はどのような事情によったものであるか、之を究明することは大変重要な問題ではあるが大田原にあっては此等に関して詳細に記述した文献はない。
大田原系図に
有故而出那須致干越前永平寺
と記し、異本大田原系図(以下異本系図とする)には
貴清(資清初名)二十二才永正十五戊寅十月九日源末大関弥五郎与貴清有意趣故那須修理亮資房為讒言及既害故居城出大俵とあって資清の亡命は同僚大関弥五郎が資清に対し意恨をいだき資清はその災が自分の身に及ぶことを恐れ居城を逃れ出たことになっている。
創垂可継はこの抗争の原因について次のように記している。
大関弥五郎増次は美作守宗増の嫡男なり堅田山田の居城の時大田原備前守資清代那須家の麾下にある恩を忘却して那須家を計るを企つ。依てその密計を大関増次その事を深く歎息して那須家に告ぐ、那須家聞き驚いて大田原為罰是故大田原資清は忽ち入道して不山永存と改名して罪を謝し降参して廻国に出づ
と、即ち弥五郎増次は資清が那須家に逆心を抱くことを知り、資房に密訴した。資房が資清を討とうとしたので資清は髪を削って仏門に入り、その罪を謝したというのである。また那須誌には次のように記してある。
大田原備前守入道不山永存時に福原五郎大関弥五郎那須へ追従して永存を讒す永存福原大関の奸謀を怒って大いに合戦を発す。不利にして越前国永平寺に相越され云云
と、これは資清が大関、福原の奸計の為に那須家に誣告したのを憤り、こらしめのために兵を起したが勝てず、亡命したというのである。この那須誌は何人の撰であるかは知らないが、伊王野家に関する記事が比較的詳しく記されている所を見ると、同家に由緒あるものの撰述であって、大田原、大関両家の係争に関しては少なくとも中立公正の態度を持したことが知れる。かつまた那須誌の記事が異本系図に符合する点から考へて両家の争った原因は宗増の猜疑に端を発したものではなかろうかと思う。
なお可継の記事について誤っていることは弥五郎増次をもって資清の敵相手としていることである。増次は美作守宗増の嫡子であって天文十一年(一五四二)十二月二十日石井沢に自殺した時に二十五歳であったこれより逆算すれば永正十五年(一五一八)生まれとなる。而して宗増が資清を水口館に攻めたのは異本系図の永正十五年(一五一八)の十月であるから増次はちょうどこの年に誕生しているのである。而して宗増は大関系図に天文十三年(一五四四)三月十八日、八十二歳病死とあり逆算すると寛正四年に生まれて永正十一年(一五一四)には正に五十二歳であった。即ち資清の非望を那須家に密告したものは勿論増次ではなくその父宗増であったことはまちがいないことである。元来創垂可継は大関美作守高増七代孫土佐守増業の編著で歴世の事歴封域の沿革などを記し、もっとも信頼することのできる筈の可継が、このような重大な誤謬を敢てしたことは、偶然か杜撰も甚しいように思うのである。
人見氏は記している。次に「朝倉孝景の調停」と題して次のように記している。
大田原資清は水口を亡命後諸国を行脚して越前永平寺に留まり越前国主朝倉孝景の知遇をうけその好意により援兵を得て国に帰り復仇の挙を遂げたことは大田原系譜、異本系図にも記載されている。
創垂可継には
其後朝倉氏頻に那須家に彼の無罪のことを以口入ある故に年月を経て大田原に帰るを得て古郷に住す。
とある。資清の那須家帰参は朝倉氏がしばしばその罪に対していいわけをして赦免を勧告したこととしている。しかしさきに宗増などによって密訴せられた資清の非望が果して事実であるならば、たとえ孝景が資清の無罪をいい立てて調停を申し入れるとも決して赦免される道理はないと思うのである。
これについて故岩瀬氏は全く無根のことを中傷したものとは考えず、前述のように資清の野心、大関宗増および福原氏の怖れがこのような結果をもたらしたものではないかと思うと述べている。
次に人見氏は「大関家討伐の経過」と題して左のように記している。
資清が大関増次襲撃の顛末について創垂可継に、
然も増次の武勇の剛なるを恐れ可討の謀略なく又永存は増次と防戦するを深く恐れ天文十一年(一五四二)壬寅十二月二十日偽謀て那須家の仰に依而今日黒羽城に会合し相談の旨あり。山田城に通報せり。増次はかくとも知らず、僅かに手勢斗りにて、山田城を出で速に黒羽城に至らんとするを大田原永存途中に兵を伏置きて討立、四方八方より放火し枯草を焼単兵急に攻戦ふ。増次は戦の用意もなく彼に謀られたるを後悔すれども今更進退極まれば火いつる程力戦すれども敵は多人数味方は無勢にして不及力勝利を失ひて黒羽城西石井沢へ落行を敵急に追来此処にも放火して遁かたきを思ひ定て自殺す。年二十五なり
而して資清は臥薪嘗胆二十五年の歳月を積み天文十一年(一五四二)二月首尾よく福原、大関両家に復仇を遂げ大田原家を再興したのである。
此等の両家攻争に関しての真相を明らかにする文献は大田原側には皆無であるがひとり黒羽藩撰述の創垂可継にはその顛末を詳細に伝へておるので本文はこれを依拠として経緯に就き検討を試みたものである。
然も増次の武勇の剛なるを恐れ可討の謀略なく又永存は増次と防戦するを深く恐れ天文十一年(一五四二)壬寅十二月二十日偽謀て那須家の仰に依而今日黒羽城に会合し相談の旨あり。山田城に通報せり。増次はかくとも知らず、僅かに手勢斗りにて、山田城を出で速に黒羽城に至らんとするを大田原永存途中に兵を伏置きて討立、四方八方より放火し枯草を焼単兵急に攻戦ふ。増次は戦の用意もなく彼に謀られたるを後悔すれども今更進退極まれば火いつる程力戦すれども敵は多人数味方は無勢にして不及力勝利を失ひて黒羽城西石井沢へ落行を敵急に追来此処にも放火して遁かたきを思ひ定て自殺す。年二十五なり
而して資清は臥薪嘗胆二十五年の歳月を積み天文十一年(一五四二)二月首尾よく福原、大関両家に復仇を遂げ大田原家を再興したのである。
此等の両家攻争に関しての真相を明らかにする文献は大田原側には皆無であるがひとり黒羽藩撰述の創垂可継にはその顛末を詳細に伝へておるので本文はこれを依拠として経緯に就き検討を試みたものである。
以上が人見氏の論述するところであるが、その経緯についてはまだ言いつくされていない点が多いように思う。それは朝倉氏の口入れでやっと帰参のかなった大田原氏に対し、主家たる那須氏が無断にて帰国早々私闘を行なった大田原氏をそのまま許すとは考えられずその間の事情にはもっと考察を要する点があるように思う。さらに元の仇である宗増を討たず、永正十五年(一五一八)の戦にはほとんど無関係の増次を討ったことの理由の考察もこの問題を解く一つの鍵となるのではなかろうか。