胤清公水口ヨリ当城三ノ丸江御越稲荷社ヨリ南ハ御囲有シ由、永正十一甲戌年二月三日卒去
次にその子資清の条に
御城前室始貴法ト号ス
また最後部に
資清公当御城御繩張御本城出来之由
と記されてあり、さらに人見傅蔵氏の大田原史年表胤清の条に
文亀二年大俵胤清居城を堀内に営む、今の西城なり
永正十一年二月三日大俵出雲守胤清卒去年六十八〇此代今正山に城く三ノ丸これなり
さらに
永正十五年十月九日大関増次大俵資清を其居城水口に攻む資清逃れて塩谷郡館川村長興寺に抵り転じて越前永平寺に入る
また同氏の大田原史料第一、君候系譜、胤清の条の付記に
北城文書に出雲守法名柳青院明庵道光大居士、永正年中より大田原当城ニ移居る且以前に城脇に住居る是先祖忠清より十二代、重清より六代
さらに
北城諒斉手記 当城は永正元子年又は天正八年とも云
なお前記年表に
天文十四年正月二十七日大田原資清大関増次を黒羽城に攻めて之を滅ぼす。此年資清公前室山に城き〓て之に居る此時石神村藤兵と云ふもの城の竣工の宴に鍬を叩て舞ふこれ後世城鍬舞の濫觴なり。此代大田原と三字に書す。大田山光真寺創建
とある。但しこの記事中大関増次を滅ぼしたとあるは同年表に
天文十二年十二月二十日大田原資清大関増次を黒羽城に攻む増次石井沢に於て自尽す年二十五資清時年四十六
また前記大田原稿には天文十一年(一五四二)十二月二十日と記してあるのと矛盾している。市稿は最後に記したもの、しかも一応十五年(一五一八)と記したるを十一年と訂正している点より検討の結果これが最も正しいと信じて記した年代ではなかろうかと思う。
さて以上の各記事から大田原城構築の始年代を考えれば、人見氏の記す「文亀二年胤清居城を堀内に営む今の西城なり」については大田原城周辺に堀内の地名は存在せず、また西城なるものも見当たらない。富士山西に中城と称する地があるがこれは大田原城より一・五キロメートルも隔たった地で大田原城の前身などとは到底考えられない。これに対し康清の構築したものと思われる荒井居館址(前記)のある周辺は現在も堀ノ内と称しており、その後水口と区別されたが当時は水口館近辺も堀ノ内と称したものではなかろうか。
胤清の代には大俵の勢力はますます増大し、より大規模な居館を必要としたため、荒井館址の西南に水口館の構築が行なわれたものと思われ、荒井居館址に対しこれを西城と称したものであろう。なお大田原城址はさらにこれより西南一キロ余りの所にある。
次にやはり胤清の代永正年中、「胤清公水口ヨリ当城三ノ丸江御越稲荷社ヨリ南ハ御囲有シ由」の大田原氏系譜の記事並びに人見氏の記事にある三ノ丸は大田原城南部、稲荷社のあった今正山の中腹にあたり、これも城郭としてここに移ったものではなく、老年に達した胤清は家を資清にまかせ自分は景勝のこの地に隠居したものであろう。それは大田原系譜並びに人見氏の資清の条に記されてある大関との争いで資清は居館水口を捨て、館ノ川長興寺の兄麟道の許に走り出家遁世したとの記事並びに胤清は永正十一年(一五一四)二月三日卒去しており、大関氏との抗争は永正十五年(一五一八)で胤清没後四年であるにもかかわらず子資清は依然水口に住していたことなどよりもうかがえる。
なおここに記されてある稲荷社は城址丘陵最南端の高所にあったものを明治三十八年(一九〇五)現大田原神社の東側に移された。
人見氏の記事については出典が記されておらぬためそれを確かめることができずにいる。しかし人見氏は各種の文献を精査しており、それをもとに書かれたものであるから決して独断による記事ではないとも思うのである。
次に異本大田原系譜資清の条に
資清、初助九郎備前守御室金丸河内守女
永禄三庚申年正月十七日卒
後貴清公御改真光院殿不山永存大居士
是ヨリ大田原三字ニ書此時御城前室始貴法ト号那須家資之字名乗事那須政資賜之第一武勇第二治那須乱本庄替事胤清貴清忠□故也然而資清二十三歳十五戊寅十月九日源末大関弥五郎資清ニ有意趣故那須修理太夫資房為〓言院ニテ及害故出居城大田原其時高増五歳資則三歳綱清ハ懐胎也無是非夫婦離別同国塩谷郡川崎村長興寺而出家永存号廻国中為学文五十余之内越前国抵永平寺其時国司朝倉左衛門佐高弘召城中問関東兵法永存答曰関東之兵法無他進退称時而巳曽テ聞公以強為木(本)足兵家恥〓也朝倉曰公言善矣他日以我戒云云其後内談騎馬五十足軽二百差添下野送小山従小山百騎足軽二百余相加同国送宇都宮清原姓益子喜四郎紀氏芳賀左衛門尉為大将三百余騎為山商坂加奈川月次大軍満野原是迄大田原助九郎令同道也早勘気御免ト云々下庄□出向説者趣急聞可退治大関弥五郎由則此大勢上庄黒羽山上下町軍兵如雲霞永存名乗曰人王五十一代平城天皇第三皇子阿保親王之御末高階姓大田原助九郎貴清入道号永存源之末弥五郎為迎宇都宮紀清之両党小山一家越前国朝倉大野人々足迄参同開可討果旨声々呼弥五郎片眼而自物見少見不張弓自害ス干時天文十四乙巳年正月二十七日元俗而資清黒羽嫡子左衛門佐ニ譲之三男竹光丸召連於宇都宮資清ハ備前守竹光丸ハ山城守ト号武功八州無隠ト云云
天文十七年那須欲取宇都宮領知喜連川同喜連川擁絶水道俊綱為攘之五月女山至那須高資〓陳干柴之薬師山俊綱之士卒数百為水ヲ木ニ下五月女坂干是資清指揮嫡子大関左衛門佐次男福原安芸守三男大田原山城守而追俊綱士卒於坂上討取是時資清之功名多云云此時資清五十二歳也
資清公当御城御繩張御本城出来之由
永禄三庚申年正月十七日卒
後貴清公御改真光院殿不山永存大居士
是ヨリ大田原三字ニ書此時御城前室始貴法ト号那須家資之字名乗事那須政資賜之第一武勇第二治那須乱本庄替事胤清貴清忠□故也然而資清二十三歳十五戊寅十月九日源末大関弥五郎資清ニ有意趣故那須修理太夫資房為〓言院ニテ及害故出居城大田原其時高増五歳資則三歳綱清ハ懐胎也無是非夫婦離別同国塩谷郡川崎村長興寺而出家永存号廻国中為学文五十余之内越前国抵永平寺其時国司朝倉左衛門佐高弘召城中問関東兵法永存答曰関東之兵法無他進退称時而巳曽テ聞公以強為木(本)足兵家恥〓也朝倉曰公言善矣他日以我戒云云其後内談騎馬五十足軽二百差添下野送小山従小山百騎足軽二百余相加同国送宇都宮清原姓益子喜四郎紀氏芳賀左衛門尉為大将三百余騎為山商坂加奈川月次大軍満野原是迄大田原助九郎令同道也早勘気御免ト云々下庄□出向説者趣急聞可退治大関弥五郎由則此大勢上庄黒羽山上下町軍兵如雲霞永存名乗曰人王五十一代平城天皇第三皇子阿保親王之御末高階姓大田原助九郎貴清入道号永存源之末弥五郎為迎宇都宮紀清之両党小山一家越前国朝倉大野人々足迄参同開可討果旨声々呼弥五郎片眼而自物見少見不張弓自害ス干時天文十四乙巳年正月二十七日元俗而資清黒羽嫡子左衛門佐ニ譲之三男竹光丸召連於宇都宮資清ハ備前守竹光丸ハ山城守ト号武功八州無隠ト云云
天文十七年那須欲取宇都宮領知喜連川同喜連川擁絶水道俊綱為攘之五月女山至那須高資〓陳干柴之薬師山俊綱之士卒数百為水ヲ木ニ下五月女坂干是資清指揮嫡子大関左衛門佐次男福原安芸守三男大田原山城守而追俊綱士卒於坂上討取是時資清之功名多云云此時資清五十二歳也
資清公当御城御繩張御本城出来之由
以上が大田原系譜に記された記事であるがこのほかにも大田原系譜なるものがある、この記事をそのままを信ぜられないことはいうまでもない。
ただここに記されてある「此時御城前室始」と「資清公当御城御繩張御本城出来之由」の二記事は注意する要がある。
前記のように胤清は城として住居を造ったものでなく単に隠棲地として選んだもの、城としてこの地を選んだのは資清であり、しかもそれは大関、福原両氏に報復した後であると思うし、大関氏への報復は天文十一年(一五四二)で人見氏の大田原年表に記された天文十二年(一五四三)が正しいように思う。そして築城竣工は天文十四年(一五四五)であるように思う。なおこの年代については次の点よりも証される。
大田原氏の檀寺、光真寺創建は天文十四年(一五四五)と伝えられ(記録焼失現存せず)、その分寺洞泉院(大田原市寺町)の創建は元和八年(一六二二)北堂素南大和尚である。その素南大和尚は光真寺六世で後を七世電庵呑光大和尚に譲りここを隠居所としたが、後洞泉院開山となりその第一世となっている。
光真寺
第一世 泰翁麟道大和尚
第二世 台山宗覚大和尚
第三世 花岳昌馨大和尚(福原永興寺中興開山)
第四世 台岸素蓮大和尚
第五世 月峰堂岳大和尚
第六世 北堂素南大和尚(元和八年 洞泉院開山)
第七世 電庵呑光大和尚(黒磯町 高林寺開山)
第八世 梅峰長頓大和尚
第九世 財庵電了大和尚(大田原市上石上全超寺開山)
第十世 骨心普哲大和尚
――中略――
第三十六世 黒田白純師 現光真寺住職
右を見ると天文十四年(一五四五)より本年(昭和四十九年)までは四百二十九年、一代の在職年限は十一年余、天文十四年(一五四五)より元和八年(一六二二)までは七十七年、この間七代、従って前記の在職年限と符合する。依って光真寺の創建は天文十四年(一五四五)といわれるのは間違いなしと断じて差し支えないと思うのである。
しかし、資清は永存と号し第一世麟道和尚の弟、大田山光真寺の開基である点より大田原城竣工が天文十四年(一五四五)で、その竣工後かあるいは同時に当時の城の一部と見られる現大田原城址の北部に光真寺を創建したもののようである。なお元の水口時代の龍泉寺は祈願寺として、また城中における仏事関係諸行事指図寺として光真寺に向いあわせ城の南部に建立せられたものである。