前記堀ノ内より水口居館、そして大田原城(写真7)への推移は荘園制末期の豪族屋敷より戦国武将の築城への経過そのままで、従う家臣の数も少なかった時代は平地に存在したおのれの屋敷の周囲に土塁を築いた屋敷程度であり、その外周に堀を回らせて防備する位でこと足りたが、家臣の増加、武器戦術の変化とともに築城地、築城術の変化となり、また経済力の発展と共にその周囲も以前とは全く変った城郭および町造りへと変化していった。しかしいずれにしてもあくまで防備を主として自然地形の利用を図ったものであることには変わりない、この期の城の多くは丘陵地を利用したものであることはこの点よりうなずかれる。大田原城もまたこれである。
写真7 天文14年に竣工したといわれる前室城(大田原城)の城あと
まず城の範囲であるがほぼ現在の城址であり、現大田原神社のある地域も外城の役目を果たさせたものであろう。しかし真に城郭として諸防備の施設をしたのは現城址の地区であったと思われる。陸羽街道(奥州街道)の開かれたのは寛永四年頃(一六二七頃)でその時に現在の大久保堀割が開削され奥州道中の通路となったが、それ以前の奥州通路はそれより北方の和久の南を通ったものと思われ、ここから水口屋敷の北側を通ったものではなかろうかと考えて間違いないように思う。天正十八年(一五九〇)大閤秀吉の奥州征伐への通路もこれでなかろうかと思う。
寛永四年頃(一六二七頃)大久保堀割開削以前はそこに蛇尾川と大窪地(大久保)の中間の狭隘な丘陵部までを第一線防禦地として設備されこの地はわずかの守兵をもってしても容易に敵襲を阻み得たのであろう。さらにそこには空濠を設け防備したことも相せられるのである。東部は蛇尾川の浸蝕による急崖で現在と大差がなく、西は一面の湿地、わずかに工を施せば進入困難な防禦の場所となり、ただ南方を警備すれば事足る自然の要害地、そのため城は南部は三重の防塁を設け家臣団以外の通行を禁じている。二ノ丸、三ノ丸がすなわちこれである。資清の構築したのもこの範囲であったのではなかろうか。
次にその外囲について見ると、ここにはさらに防備を主にした跡が歴然としている。まず城の麓および西南には家臣達を住まわせ、武具の製作、修理の工人達は城に近接して、またその外へは城と密接な関係ある寺院を配置している。経済的関係を持つ商人達はそれより離れた一定の場所に住まわせていたようである。
まず武士達の住居は長屋といった方が適当と思われるもので、本丸(築城当時はこの名があったかどうかは疑わしい)東部の城郭の裾の位置にさえ住まわせており、北部は現在の旧奥州街道と新街道(昭和三年(一九二八)開通)の中間部、西は大田原小学校東部道路よりその東部、南は山中北部はすべて武士達の住居地で、今も根小屋(寝小屋)(根古屋)または「ねっこ町」と称している地域がある。
次に工人を住まわせた場所は北町の内城に最も近い所を選び(今の大久保町)当時は北、東、南を丘陵に西部は湿地であった窪地内である。なおその工人達は支配領内より集めて、武器および農具の製造に従事していた。ことに武器製造を主としていたらしく、今日でもそれらの人達の住んでいた所は地名として、あるいは言い伝えとして残されており、その場所を発掘すると必ず金屎(かなくそ)、炭、または砥石、銅片が現われてくる。資清はこれらの人々、さらにその他の工人達を城郭の一部ともいうべき場所に住まわせておったもので、その名残りは現在も大久保町に残されてある。かじや、石やはすなわちこれであると言われている。
次に寺院については前記のように堀ノ内、水口時代の檀寺である龍泉寺は城内における仏関係をその指図下に置かしめた。龍泉寺は大田原氏が水口に居館を構えていたころから大田原氏とは深い関係のある寺であり、また光真寺は資清が大関氏との争いに敗れ越前永平寺に逃れ、そこの檀徒総代ともいうべき朝倉氏の援けにより再興した因縁と、永平寺に逃れる前実兄麟道が住職であった矢板市川崎の永平寺末寺長興寺に行き剃髪した関係から後麟道を迎え長興寺末寺として光真寺を開山せしめている関係上、この両寺は共に大田原氏とは密接な関係があり、これを城の南と北に近接して建立している。現在の龍泉寺は明治四十一年(一九〇八)十二月七日光真寺より発した火災のため本堂その他一切を焼失したのでその後現位置に移されたもので、元の位置は三ノ丸の南部に存した(写真参照)
以上をもって資清の構築した城の範囲と周辺の有様は大体見当づけられる。
次に武器と築城との関係より当時の様子を考えてみるに、築城を始めた天文十二年(一五四三)は日本に初めて鉄砲が伝来した年で、ポルトガルの漂流船が九州種子ケ島に二挺もたらしている。当時日本は戦国期であり、この新しい武器は急速に全国に拡まったとはいえ、この大田原にくるまでには二~三十年を経た後のことであろう。従って築城もこの新しい武器を考慮して築かれたものではなく、以前よりの武器による戦いと防備を考えてのものであったであろう。現存するものはこの新しい武器に対する防備を考慮したもので、以前のものと相違しているのは当然である。
次に水口館よりこの城に移るにつき従って来たものについて、人見博蔵氏の稿に次のように記されてある。
不山詠存公百七十回忌
大田原藩祖、備前守資清は、永禄十一年(一五六八)正月十七日卒去し、光真寺殿不山永存大居士と謚した。享保二十一年(一七三六)(四月二十八日元文と改む)正月十七日百七十回忌法要を大田原城中に厳修した。これより先藩庁は御目付役をして、資清の水口居館より前室入城に扈従せし諸士以下の子孫を調査せしめたところ、孰れも正確なる家記は存しないが先祖よりの言ひ博へによるものは、
この日大広間床間正面に永存公の真影を奉安し、御飯、昆布、勝栗、納豆を高盛、三宝四基を供へ、家老並に前記諸士拝礼畢って町年寄文四郎、小雑用瀬兵衛拝礼仰せつけられ諸士は書院に於て御用人及び当番の倹約奉行、御目付と何れも麻上下着用、御料理を頂載した。藩主扶清出御、懇ろなる御言葉を賜ふ。接伴は小姓頭、納戸役である。町年寄は納戸役の接伴にて中ノ口脇に於て御料理を頂載した。
なほ法会の日は特赦令を発し、寺社、町村方より願ひにより罪科によって詮議の上赦免せられた。当時寺社方大田原定右衛門、阿久津庄右衛門、荒井村仙右衛門、清五郎は洞泉院願出により赦免(以下略)
大田原藩祖、備前守資清は、永禄十一年(一五六八)正月十七日卒去し、光真寺殿不山永存大居士と謚した。享保二十一年(一七三六)(四月二十八日元文と改む)正月十七日百七十回忌法要を大田原城中に厳修した。これより先藩庁は御目付役をして、資清の水口居館より前室入城に扈従せし諸士以下の子孫を調査せしめたところ、孰れも正確なる家記は存しないが先祖よりの言ひ博へによるものは、
大田原権左衛門 大谷源左衛門 大田原半六 阿久津正右衛門 大田原段右衛門 阿久津長左衛門 豊田市之進 伊藤兵左衛門 阿久津惣兵衛 木佐美忠四郎 阿久津岡右衛門 大田原権之丞 阿美三保次郎 滝田次郎左衛門 高瀬太郎右衛門 鈴木弥次右衛門 阿久津杢左衛門 磯雲碩 遅沢数右衛門 松本惣右衛門 印南由右衛門 八木沢宇右衛門 斉藤嘉右衛門 三本木助右衛門 佐藤治郎右衛門 町年寄文四郎 小雑用瀬兵衛 山守儀右衛門 升取源内 御挾箱持八内 御中間浅平 御下男藤吉
この日大広間床間正面に永存公の真影を奉安し、御飯、昆布、勝栗、納豆を高盛、三宝四基を供へ、家老並に前記諸士拝礼畢って町年寄文四郎、小雑用瀬兵衛拝礼仰せつけられ諸士は書院に於て御用人及び当番の倹約奉行、御目付と何れも麻上下着用、御料理を頂載した。藩主扶清出御、懇ろなる御言葉を賜ふ。接伴は小姓頭、納戸役である。町年寄は納戸役の接伴にて中ノ口脇に於て御料理を頂載した。
なほ法会の日は特赦令を発し、寺社、町村方より願ひにより罪科によって詮議の上赦免せられた。当時寺社方大田原定右衛門、阿久津庄右衛門、荒井村仙右衛門、清五郎は洞泉院願出により赦免(以下略)
なお城構築竣工祝に石上村百姓藤兵衛が舞いを舞ってこれが城鍬舞の起源であると伝えられておる。
この「不山永存公百七十回忌」の文で注意したいと思うことは、当時どの位の人数が資清と共に前室城の築城に、あるいは大田原氏の基礎固めに努力したであろうかということである。このことは当時の大俵氏の勢力を知る上で大変重大なことではあるがこの文中からは知る由もない。ただここに記されている者は二十四~五名程度であり、相当数の家臣の入れ替りがあったとしても、おおよその城の規模なども想像できるような気がするのである。
資清はここに移って後、大俵姓を大田原と改め、還俗して大田原備前守資清と名乗り、以後大田原をもって姓とするに至った。