天正十八年(一五九〇)正月綱清はすでにおのれの命脈のあと幾ばくもないことを知り、家の一切はあげて晴清に任せていたと見える。それはこれより記することで知ることができる。
信長の後を承けて立った羽柴秀吉は応仁の乱後麻のごとく乱れた国内統一に努めそのほとんどを成し遂げたが、ひとり小田原城主北条氏直は早雲以平五代の余威に誇り、秀吉の上洛督促にも応じなかった。そこで秀吉は天正十八年(一五九〇)正月九日大坂より帰洛すると直ちに北条氏追討の軍議を決し、上杉景勝に北条氏征伐のことを告げ、また真田昌幸にも出馬の時期を告げた。天正十八年(一五九〇)二月二十二日近江中納言秀次は五畿以南関西の兵十二万を率いて京都を発し、三月一日秀吉は自ら一万騎を率いて小田原に向かった。
秀吉は進発するに当たり軍令三ケ条を定め、これを全軍に布告した。
一、軍勢甲乙人等乱妨狼籍事
一、放火之事
一、対地下人百姓、利分之儀、申懸候事
右条々若於違犯之輩者、忽可レ被レ処二罪科一者也
天正十八年三月 日
秀吉朱印
この時に当たり国中の諸候のほとんどは秀吉の軍門に集まったが、ひとり那須資晴はこの戦役に参加することを肯じない。
この理由について那須資直撰(宝暦九年、一七五九)那須系図資晴条に
天正十八年庚寅月関白秀吉公征伐相州北条氏(世称小田原北条家)時資晴以二名家且壮年驍一勇軽二視之一不下出二仕干小田原一拝謁秀吉公上一族諸老勧二出仕不レ肯遂諸老保二護之一称下資晴依二所労一不中出仕上
とある。那須家は須藤権守貞信以来数百年にわたる関東の名族、また資晴は少壮より幾多軍陣の間に馳駆した勇将であり、当時における秀吉の勢威を察知し得ずこれを軽視したとみることもできるが、一面の理由は那須氏は父祖以来北条氏とは攻守同盟の関係にあってにわかに敵対行為に出るに忍びなかったのでもあろう。しかし大田原晴清はじめ諸老臣などは今秀吉の命に服さなかったならそれこそ家の浮沈にかかわる重大事と考え、資晴に勧めて小田原に出陣させようとしたがついに聴かれなかった。
そこで晴清は諸将に先だち騎卒を率いて大田原を発した。三月二十七日秀吉が駿河国三枚橋城に着き、織田信雄、並びに徳川家康に迎えられた際、晴清もまたここに来て秀吉に謁見した。秀吉は大いに遠来の労をねぎらい、備前勝光、宗光の両刀を賜い従五位下備前守を称せしめた。大関晴増はこの時使者を遣わして秀吉の起居を伺った。秀吉は四月一日付戦況を報じて来謁せしめた。
書状於駿河三枚橋令二披見一北条為二誅罰一去月朔日令二出馬一同二十四一日着陣□□見及候昨二十九日山中城即時攻崩城主始首千級討捕其外追討不レ知レ数候伊豆国属二本意今日箱根峠レへ打登候小田原表行急度可二申付一候是又早速可二打果一其節出仕尤候尚石田治部少輔増田右衛門尉可申候也
卯月朔日
大関土佐守殿
卯月朔日
大関土佐守殿
書中「其節出仕」とあるは晴増が小田原城総攻撃には参陣する旨申し出たことをいうのである。なお大関家譜其の他諸書に当時那須七騎がうち揃って秀吉に参謁したように記されているのは誤りであろう。
しかして資晴は四月十二日付書状を秀吉に送り起居を伺った。秀吉は資晴に次の答書を送り、小田原の形勢を報じ速かに小田原に来会せよと促した。
卯月十二日書状今月十五日令二披見一候。如二来意一小田原事厳令詰置之上急度可レ被レ刎二氏直首一儀勿論候然は八州城々為レ如二見聞一之条路次無二貴煩一(きづかい)候定而近日可レ為二参陣一候間其節可レ被二仰聞一候。尚増田右衛門可申候也
五月十八日
那須太郎とのへ
五月十八日
那須太郎とのへ
これより先四月八日に下野皆川広照は兵百余人を率いて小田原城を脱出、秀吉に降を申し出て旧知の家康に引き渡され、五月九日には伊達政宗は百余騎を従え会津を発して小田原に赴いている。
しかるに資晴はついに小田原征討には参加しなかった。大関高増はその子晴増並びに福原、芦野、伊王野、千本、岡本等と四月二十七日小田原に出陣した。そして晴増等七騎は浅野長政と共に忍城の成田氏長を攻め降し、七月五日北条氏直は力つき城を出て滝川勝雅の陣所に到り降を乞うた。六日秀吉は小田原城に入り氏直の死を宥(ゆる)し、父氏政と弟氏輝とに死を賜い氏直は高野に放たれた。ここにおいて早雲以来五代百余年関東に雄視した豪雄もついに滅亡したのである。
小田原が落城すると秀吉は参陣しなかった資晴の罪を責め、浅野長政に命じて烏山城八万石を没収させた。この時関秀長が長政に与えた書面がある。
先刻以二飛札一申上候処に御使に何方へ哉らん被レ成二御越一候と申従二御本陣一飛却罷帰候。重而申上候。那須烏山城請取居申候へと被二仰出一俄に罷越有事候。爰許御用之儀御座候ハ可レ被一仰付一候。従二会津一御帰陣無二御失念一被二召烈一候様に仰取合奉レ願存候。恐惶謹言
八月五日 関勝右衛門秀長 花押
浅 弾正様
人々御中
八月五日 関勝右衛門秀長 花押
浅 弾正様
人々御中
ここにおいて資晴は、烏山城を去り夫人結城氏と一子藤王丸とを携え佐良土村佐良土氏の居館に身を寄せた。
七月十七日秀吉陸奥地方を征しようとして、小田原を進発、十八日江戸着、十九日進発、二十六日宇都宮に着陣、陸奥、出羽のことを諜議しょうと伊達政宗、最上義光を召致した。また宇都宮国綱には軍人乱妨禁止の条例を与えた。
かくて秀吉は二十八日大田原城着、三十日大田原城発、金田地区河原、町島(水口館西部より北回り)、のし内、滝(おかんぢぢ東)、寺方(大道内)、練貫、久保、羽田を経て、八月六日白河に進み、長沼勢至堂を過ぎ黒川城(若松)に到った。九月十二日若松を発し、ついで高原山、山王峠をこえ、宇都宮を経て十月朔日京都に凱旋したのである。
豊臣秀吉は北条氏を伐つや大田原晴清の功を録して本領安堵の朱印を下賜した。
大閤様御朱印写
知行方目録
一、百八拾壱石弐斗七升 那須内戸之内
一、百四拾九石弐斗八升 同 荒井
一、六百弐拾五石参斗 同 大わぐ、赤瀬、松嶋
上下
一、五百四拾九石八斗四升 同大田原南町 おきの目
一、六百八拾石七斗六升 同大田原北町 沼ノふくろ
一、四拾弐石壱斗 同いしばやし
一、百弐石七斗五升 同月の木沢
一、百六石四斗五升 同 中ノ内、遅沢
一、百三石 同 せき年
一、参拾弐石五斗八升 同 とミ山、遅沢、高柳、南こうや、ささぬま、中ノ内
一、弐百参拾参石八斗四升 同 井口
一、七拾六石四斗四升 同 袋嶋
一、百五拾石六斗五升 同 下中野
一、九拾九石六升 同 上中野、しま
一、百四拾八石九斗弐升 同 波立
一、百石九斗八升 同 見のわ
一、弐百五十仁石仁斗壱升 同 高林、やつぼ、赤坂
一、六百三石五斗 同 いし上
一、五百九拾弐石三斗 同 こたき、上さくら井
一、弐百参拾七石八 同ふな山の内
一、四百八拾壱石三斗六升 同ふな山の内
一、百四石 同 喜連嶋
一、参百五拾石壱斗弐升 志ほのや分 上大貫
一、弐百参拾石弐斗一升 同 下大貫
一、参百五拾石壱斗九升 同 金沢
一、参百九石壱斗壱升 同 宇津野、おその佐わ
一、百八拾四石三斗七升 同 せきや
以上、七千百拾四石 本知御朱印
那須拾遺記は其の後の模様を次のように記している。すなわち
秀吉公、小田原を悉く攻め落し給いて、また関東の諸士の幕下に来らざる者の罪を糺し給う。折から那須修理大夫資晴、旗下へ参らざることを立腹ましまして、烏山の城地御取上あって、織田信長公の御孫、正三位の中将信忠の御子、尾張の中納言秀信卿へ給わりければ、那須資晴、城地相違なく明渡し、佐良土村へ立退き給いけり。
烏山へは、尾張中納言入り替りて暫らく御座ありけるが、秀吉公、つくづくと御思案あって、此の人は後に我が子孫の敵となり給わん人なりと思い返して、また烏山を御取上げ、成田左馬介泰十へ給わり、尾張中納言をば、奥州会津へ遠流せられけるが、また此の人、願によって紀州高野へ登らせ置き給いけり。
爰にて遂に果てさせ給うとなり。