この頃石田三成は家康が豊臣氏にかわろうとする野心のあることを看破し、景勝等と東西相呼応して兵を挙げ、徳川氏を除こうとした。
たまたま景勝は新城を神詣原に築き、義宣また一味であることの旨を堀秀治の老臣堀直政から注進があった。
この時にあたって大田原晴清、大関資増、那須資景、福原資保等は大坂に居り、晴清等は急使をもって「たとへ上杉、佐竹氏一味の誘があるとも必ず同心しないように」と申送った。
そして家康からは、特に「常陸奥州と境の近い那須一党は疾く本国に下り、城地を堅固にし、わが進軍を俟つべし」との命があった。
四月晴清は上杉氏の情況を偵察し、また上国の密使を捕え、資増、伊王野資宗等と共に家康に報告した。家康は次のような教書を与えた。
今度会津表の儀令二注進一候其国上堅可レ被二相守一候追付出馬可二討果一候恐々謹言
五月三日(慶長三年)家康
大田原備前守殿
当時大坂にあった家康は、東北諸候の諜報を得て、「大田原城は関東最北の要衝にあたる。宜しく防備を厳重にすべし。」との令旨を出し六月普請奉行内藤金右衛門忠清、石川八左衛門重次の二人は、歩卒千余人をひきいて大田原にきた。そして士卒を励まして城郭の修理をし、塹濠(ざんごう)をさらい、大久保山を掘削して副道を通じた。後にこれを江戸堀といっている。この時将軍秀忠は蒲生源左衛門重次に命じて教書を晴清に与えた。
先日は就二境目之儀一度々被二申越一候趣喜悦之至候就レ夫其元各被二致相談一人留之儀堅可申付候。委細之儀石川八右衛門へ申含候恐々謹言
六月二十二日 秀忠 書判
大田原備前守殿
六月二十二日 秀忠 書判
大田原備前守殿
これによれば那須一党はその領内に関門を設け人々の往来や出入りを厳重にしたのである。そして蒲生源左衛門は歩卒五百人を率いて宇都宮からき、皆川山城守隆庸、服部半蔵正成は鉄炮十挺、大筒三門および硝薬などを運び込んだ。翌年七月正成等が凱旋に際して大筒と硝薬とを大田原城に残しておき、それが明治維新戊辰の戦役にこの大筒を使用して徳川氏の親藩である会津兵の大田原城下に迫るのを撃攘(じょう)したのはまた不思議な因縁というべきである。
七月家康は会津進軍にのぞみ陣中の条目を発令した。
御陣中御条目 (徳川実記)
一、喧嘩口論堅停止の上違背の輩にをいては理非を不論隻方共に誅罰すべし
一、喧嘩口論堅停止の上違背の輩にをいては理非を不論隻方共に誅罰すべし
或は傍輩に思ひをなし或は知音の好みにより荷担の族あるにおいては本人より可レ為二曲事一旨急度可二申付一自然於レ令二用捨一はたとひ後日に相聞候共可レ為二重科一事
一、味方の地に於て放火並乱妨狼籍停止の事 付作毛を取ちらし田畑の中に不レ可二陣取一事
一、敵地に於て男女猥に不レ可レ取事
一、先手を差越縦高名せしむと言とも軍法背之上は可レ為二成敗一事
一、子細なくして他の備へ相交る輩あらば武具馬具ともに可レ取レ之然上は其主人異儀に及ばゝ共に可レ為二曲事一事
一、時の使として如何様之旨遣といふとも不レ可二違背一事
一、諸事奉行の指図不レ可二違背一事
一、持鎗は軍役の外たるの間長柄を差置持たする事令二停止一但長柄の外持たするに於は主人馬廻に一本可レ持事
一、不レ可二押買狼籍一事
一、小荷駄押之事兼而軍勢等相交はらざる様に可二申付一若相交輩あらば其者可レ為二曲事一但路次申合の方ニ付可二押通一事
一、出陣中に馬を不二取放一様に可申付事
一、舟渡の儀他の備に不レ交一手越たるべし夫馬以下同前之事
一、無二下知一して不レ可陣払事
右の条々若違背之輩於二有之一は可レ処二罪科一者也仍如レ件
慶長五年七月 家康
七月十九日徳川秀忠は江戸城を出発した。供奉のものは結城秀康、松平忠吉、蒲生秀行、松平忠明、井伊直政、榊原康政、本田忠勝、真田信幸、石川玄蕃頭、松平飛騨守、仙石越前守、山川式部大輔、日根野徳太郎等六万九千三百余騎、佳例によって康政を先駆と定めた。康政が大田原に到着しているのに後陣はまた古河、栗橋に充満していた。二十二日秀忠宇都宮城に着陣。晴清はその弟増清および典清とまた大関高増はその子増晴、伊王野資宗等と秀忠を石橋駅に迎え謁見した。秀忠は片鎧をあげて謝意を表わした。家康は二十日自ら兵数万の将として江戸城を進発し、八月九日小山に着陣した。晴清はこれを出迎え謁見した。家康は土井甚三郎に供応させ、那須一党に先駆を命じた。この夜伏見城鳥居元忠から三成挙兵の注進が達した。家康は秀忠および白沢喜連川在陣の譜代の諸士を召集した。本田忠勝は庁南城から榊原康政は大田原から来会した。家康は諸士とともに対策をねる。本田正信は結城秀康を招くことを進言した。秀康がきていうには「大人宜しく星夜奔馳勝を一撃の下に決すべし景勝の如きは児一人にて足る。政宗は信夫口を塞ぎ、堀秀治は津川口を塞ぎ、児は大軍に将として宇都宮を塞がば復(また)後顧の患なし」と、家康は方針をきめ、秀忠は三万八百余人を率い、中山道を西上した。また家康は軍監として蒲生秀行を副将とし兵一万をもって宇都宮城に駐屯させた。晴清らは秀忠に属して従軍することを乞うたが家康がいうには「大田原は敵の衝路にあれば宜しく封国に居て油断なく防備に努めよ」と慰めさとした。そして晴清には正恒の刀一腰と黄金百両を賜った。晴清は帰路宇都宮の行営に秀忠を訪い師光の佩刀一腰と金壱封を下賜された。そして大田原城は那須資景、福原資保、芦野政泰、千本義政、岡本義保等の那須の一党が籠城防ぎょに備え、皆川広照、成田氏長等も加勢し備えを厳重にした。
八月四日家康は小山を出発し、六月江戸城に帰った。八日松平忠吉を総師とし、軍監に井伊直政を、また本田忠勝は騎卒五万を率い東海道を進んだ。西軍は石田三成、小西行長、島津義弘、浮田秀家等歩騎十三万余、七月十五日伏見城をおとしいれ、東下して美濃に出、大垣城を根拠とした。岐阜城主織田秀信は西軍に応じ、兵を木曽川の河岸に出して陣を構えた。二十二日東軍は二手に分かれ、川を越えてこれを破り岐阜町口に攻め入った。翌二十三日東軍は総攻撃を開始し、福島正則は七曲口から、池田輝政は搦手から火を放ち、黒田長政、藤堂高虎は大手門を攻めた。秀信は支えきれず、城を出て走った。東軍はさらに進んで秀信の援軍を呂久川と合戸渡との間にうち破ったので、三成、義弘等は大垣城に退いた。忠勝は勝報を家康に送った。
家康は軍旅を整えて西に進み、十三日岐阜着、十四日出発、呂久川を渡り赤城の後方の南禅寺山との間余池越で諸将に面謁した。
この夜三成らは密かに大垣城を出て、関ケ原に陣を張った。時に秀忠の率いる所の中山道軍がまだ到着しないので、家康は策を決し十五日早朝自ら総軍七万五千を指揮して関ケ原に進んだ。
これより先大田原晴清は使者を送り、家康の陣中の起居を見舞った。家康の答書に
書状到来悦着之至候弥其表無相替候由珍重候弥無二油断一相守可申候。当表之儀今十三日至而岐阜着陣早速凶徒等打果吉左右可二申遣一候 恐々謹言
九月十三日 家康判
大田原備前守殿
九月十三日 家康判
大田原備前守殿
また晴清は大関高増等と浅野長政に急使を出して一書を送った。十八日長政は赤坂の陣所に受け取り、翌日返書を認め使者に渡した。
去十四日之御状昨十八日至二濃州赤坂一相届拝見申候被レ入二御念一預二忝本望一候如二仰之一今度各上方江被二相勤一濃州にて去月二十二日諸勢二手に分川越被レ仕候左京などは松倉之瀬相越候処に岐阜より川端江人数罷出候即二及一戦一切崩岐阜町口迄追討仕候。翌日二十三日各岐阜之城へ取懸即時責崩候。左京は推量し山に取出を構へ石治部、人数籠置候柏原に為二大将一有レ之処を乗崩悉打果申候。又岐阜為二後巻一石治部、小西、島津、備前(浮田)中納言罷越候処ろく(呂久)とかうと(合戸)の渡りの間にて是又各被二一戦一一人も不レ残追討被仕候依レ之右之大将分之者共大柿(垣)へ逃籠申候押詰丈夫に被二取巻一内府様御上りを被二相待一候処に去十四日至赤坂表着馬被レ成候御威光にて十四日之夜大柿に有レ之大将分者共逃申候十五日早速早天より御人数を被レ遣御馬被レ出関ケ原表に而悉追討に被二仰付一候其より直に佐和山へ御座寄当城も一昨十七日相済申候内府様は直様大坂へ御座被レ成候中納言様中山(道)より御上洛に付て我等も令レ供候て罷上候御使見如レ申昨日赤坂へ御着被成天下静謐早様箇様にも成物に候哉おのおのには可二御心易一候具に可二申入一候へ共御使よく見届罷下候間不レ委候其元境目之儀は今少之間(に)候条万端無御弓断御肝煎専用に候 恐々謹言
九月十九日 浅野弾少
長政花押
大関佐衛門佐殿
尚々伊下、大備、福雅、成左、芦孫、千本大和、各別紙可二申入一候へ共急(に)罷通候間無二異議候各江具に被二仰聞一可レ被レ下候以上
九月十九日 浅野弾少
長政花押
大関佐衛門佐殿
尚々伊下、大備、福雅、成左、芦孫、千本大和、各別紙可二申入一候へ共急(に)罷通候間無二異議候各江具に被二仰聞一可レ被レ下候以上
追書にある伊下は伊王野下総守資信、大備は大田原備前守晴清、福雅は福原雅楽頭資保、成左は成田左馬允氏長、芦孫は芦野孫太郎政泰、千本大和守義政、宛名大関左衛門佐は左衛門督資増である。
この役西軍の兵数十万八千、野戦をもって一挙に勝敗を決しょうとして、激闘六時間半におよんだが、西軍遂に大敗した。ときに慶長五年(一六〇〇)九月十五日である。
家康進んで大坂城に入り悉く三成の与党を刑して戦は終った。ここにおいて諸候皆徳川氏に威服し、天下の政権は全く家康の掌中に帰した。
この役大関資増は家康の命をうけて榊原康政の臣伊奈主水の監督の下に城堡を修理し、岡部内膳匠、服部市郎右衛門等は援兵を率いて籠城し、また水谷伊勢守は佐竹勢への押えとして鍋掛駅に駐屯した。
また伊王野城は奥州境に近く上杉勢が諸所に出没して不穏の状況であったので、伊王野資宗は譜代の家士を集め警備に努め、また上杉の密偵を捕えて家康に報じた。
陸奥(みちのぐ)に何んかげかつ逸(はや)るとも、内府おん馬のお出なら、風の木の葉の散るごとく
と老若男女、野山に歌いはやしたりと伝えられる。
なお家康からは晴清宛の次の書状がある。
急度(兎角)申遣上方出馬之儀は先々令二延引一爰元二有レ之事自然景勝其口江可二発向一哉於二其儀一は早速注進可レ有レ之候則乗附可レ被二討取一候為其申遣候 恐々謹言
八月二十五日 家康判
大田原備前守殿
急度(兎角)申遣上方出馬之儀は先々令二延引一爰元二有レ之事自然景勝其口江可二発向一哉於二其儀一は早速注進可レ有レ之候則乗附可レ被二討取一候為其申遣候 恐々謹言
八月二十五日 家康判
大田原備前守殿
以上のことから考えると家康は初め上杉景勝を征しょうとし軍を進めたが、途中石田三成を中心とした西軍の進発を知り事の容易でないことを考え急ぎ主軍をまとめ、上杉勢への備えとして那須一党を主力とした守備軍をおき、自らは大軍を率いて天下分け目の決戦にのぞんだものであろう。従ってこの地域にあってはあくまで守勢にあり、その裏には深く那須一党の勢力と忠誠を信頼したことがうかがえるのである。やがて江戸幕府の成立後幕府は旧領主達の勢力を抑え、禁令を厳重にしてわずかの過ちをも口実として取りつぶしを行なっており、ことに継嗣については男子のない場合はその家を断絶させていることが通例のようであったが、大田原、大関、福原氏共その例があるにもかかわらず、これを見逃しており、後々までお家安泰であった遠因は、徳川氏の存続にかかわるこの戦に際しての那須一族に対する特別の配慮であったとも考えられる。
なお徳川家康は上杉景勝の挙兵に際し、大田原城死守およびその準備のため、森田郷、八百石を加増し、(八ケ代、太金、小塙、入江野)更に関ケ原の戦後大田原晴清の功を賞して三千五百余石の加増をした。
すなわち
御賀増当代
一、八百石 那すの内、八ケ代、太金、小塙、入江野
一、千百八拾六石 宇都宮之内 真壁之郡祖母井
一、六百五拾八石七斗五升五合 同 上延生
一、七百八拾八石七斗四升八合 同 いなけた
一、百三拾五石五斗三升壱合 いわき竹貫石川郡 山上
一、四百卅弐石三斗五升七合 田口
一、三百石 なすの内せば原 大田原弥三
以上四千三百壱石四斗三升一合の御加増分
右合壱万壱千四百拾五石也
付記 右数本知にて三十六石四斗一升、加増分にて四升の誤りあるもここでは原本のまま記す。
さらに同文書に次のごとく記されてある。
一、弐百石 竹貫御替地西方郡小薬村
一、百六拾石八斗 同 七井内 大平村
一、弐百七石壱斗弐升八合 同 七井
三口合五百六拾七石九斗弐升八合也
右何も竹貫之御替地也
元和四年(一六一八)の春ニかわる
一、弐百五十三石仁斗仁升八合 うつのみやノ内 いなけた
一、百五十七石仁斗六升 同 志いかい
一、
(原本抹消しあり)
八十九石七斗三升五合 (七井村 右之替り)
以上五百石也
一、三百弐拾仁石仁斗九升四合 いなけた 佐藤源左ヱ門
一、八拾八石壱斗九升四合 同 ふうじと
一、
(原本抹消しあり)
八拾九石七斗三升五合ハ七井之内 右之替り
三石以上五百石也
惣郡合壱万弐千四百拾五石也
慶長拾八年三月七日ニ郷方御奉行衆
伊丹喜介殿内 根本太郎左エ門殿
右竹貫のかゝりは、元和四年ニ替候
替候口へ打越請取候衆 持主
金右ヱ門(花押)
筑後守
監物 対
〓左ヱ門対
九左ヱ門対
右御朱印之写し此とほり也
御加増被下置年月之覚
一、森田八百石ハ子子ノ八月上旬
右是請取奉行 九左エ門 作右エ門 右時刻知行割之時ハ正右エ門も参候
一、祖母井 いなけた 上延生 竹貫ハ とらの年ノ極月被存候 次ノ卯の年ノ正月知行を御請取組
右是請取奉行
監物と九左衛門
大閤以来御当代ニ至テ大田原備前守知行高御朱印之写し かみ数 弐枚也
と記してある。
これをもって見ると、小田原戦以前の大田原氏知行高は七千百拾四石であり、上杉挙兵から関ケ原戦後に加増されたものは、四千三百壱石四斗三升一合で、合計壱万壱千四百拾五石となる。これは南那須、芳賀、福島、およびせば原であり、元和四年(一六一八)福島県内の地と小薬、大平、七井が替地となり、明治四年廃藩置県となるまで二百五十余年間大きく変ることなく支配領となっていた。