第二章 豊臣氏の滅亡

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 関ケ原の戦によって天下の実権が家康の手に帰するや慶長八年(一六〇三)征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。しかし大坂城には豊臣秀頼がおり、秀吉恩顧の将兵と巨万の富、そして堅固なる大坂城の存在はいまだ完全なる家康の支配にはならなかったため、いかにしてこれを滅ぼそうかと日夜腐心していた。
 まず秀忠の長女千姫を秀頼の妻として、淀君や家臣達の歓心を買い、一面において蓄積された富をいかにして散じさすべきかを考え、秀吉の遺志および戦いに散った人々の霊を慰めるためと称して方広寺に大仏殿の再建をすすめた。方広寺は秀吉在世中に造立したが震災にかかって破壊し、秀頼によって再建したが工事半ばにして火災にかかりそのままになっていたもので、慶長十四年(一六〇九)家康から秀頼に勧告があったため、片桐且元等が奉行となり、五年の歳月と莫大な資用をかけ十九年落成、八月十八日を期して大仏供養の儀式を行なわんとしたところ家康から意外の難題を持ち込まれた。すなわち鐘銘問題である。
 これより先家康は大坂方と一朝事ある日を期し、慶長十六年(一六一一)二月京都二条城に在京の諸大名を召し、徳川氏の定めた法度、命令に違背するものをその国々にかくまわぬことを誓わせた。しかし豊臣氏はこれに服さなかった。さらにその翌十七年(一六一二)正月五日、幕府は法令三ケ条を東北諸大名に示し、それに違背しないという誓書を出させた。大田原一族をはじめとする那須勢は佐久間将監安正等四十八名を連署して次の書を幕府に提出した。
一、去年四月十二日前右府様如仰出右大将家以来代々将軍法式可奉仰之被考損益而重而従江戸被出御目録者弥堅可守其旨事

一、諸侍於或背御法度或違上意者其国々不可隠置事

一、各抱置諸侍之中若為叛逆殺害人之由於有其届者互不可相抱事

   右条々若有相背輩者被遂御糺明速可被処厳科者也仍如件
    慶長十七年正月五日 大田原備前守花押
 さらに慶長十九年(一六一四)九月に入ると家康は鐘銘事件を契機として事態いよいよ容易ならずとし、諸大名の帰否を見るため誓書をなさしめ、那須勢一同もこれに応じている。
     敬白天罰霊社起請文前書之事
   一、奉対両御所様不可存表裏別心事
   一、対背上意輩一切不可申談事
   一、被仰出御法度以下毛頭不可相背事
右条々於相背者梵天帝釈四大天王五道冥官泰山府君別而天照皇太神八幡大菩薩愛宕大権現伊豆筥根両所権現三島大明神天満大自在天神部類眷属神罰冥罰可罷蒙者也

    仍起請文如件
     慶長十九年九月七日
           大田原備前守晴清花押血判
       本田佐渡守殿
       酒井雅楽頭殿
 かかるうち慶長十九年(一六一四)十一月大坂冬の陣となり、晴清は他の那須七騎達と共に本田正信に属し平野口に戦い、また翌元和元年(一六一五)夏の陣には前同様本田正信に属し洲名表の守備を命ぜられた。ところが晴清慨然として「先鋒には我等那須七騎に命ぜられたい。然らずんは命には応じがたい」と述べたため秀忠は本田正信をしてこれを慰撫せしめた。この役晴清奮闘敵の首級七十余級をあげてこれを秀忠の幕下に献じた。
元和元年乙卯大坂御陣供奉受
命属千本田佐渡守正信組勤先陣所謂本田大隅守、立花左近将監、同主膳、前田大和守、日根野織部正、藤田能登(但夏陣則藤田属榊原遠江守)、菅谷左衛門及我七党、武川衆、津金衆、秋元越中守、由利衆、南部信濃守、坂崎出羽守也
右之役得首級大被賞之七拾五者左京大夫(資景)、同七十者大田原備前守(晴清)、同七拾余者大関弥平次(政増)、同三拾二者福原安芸守(これは雅楽頭資保の誤りならん)、同三拾四者芦埜藤九郎、同三拾四者伊王野又六郎、同三拾一者岡本宮内少輔、同三拾八者千本大和守也(那須拾遺記)

 なお蓮見長氏那須郡誌には那須左京大夫資景七十五。大田原備前守晴清七十三。大関弥平治政増九十七。千本大和守義貴三十八。伊王野又治郎資朝三十四。芦野民部資泰三十一。福原安芸資孝(次代雅楽頭資保ならん)二十二。(鮎ケ瀬蔵那須継志録)と記されている。
 なお晴清は慶長十九年(一六一四)九月安房館山城主里見忠義不始末のかどにより封領十二万二千石を改易されるにあたり、幕使内藤左馬之助政長、本田出雲守指図のもと那須資晴、福原資保、大関資増、芦野政恭、千本義政の那須諸大名並びに他の諸大名と共に城地受取の役に任じ、十月帰封それより大坂へ馳せ参じている。
(徳川実記)

 豊臣氏を滅ぼした徳川氏は幕府の基礎確立と永続性を図り、武家諸法度その他の規定を設け、秀吉によって行なわれた兵農分離政策の徹底を強く押し進め、また身分制を確立し職業の世襲制を定めた。諸大名に対しては一国一城制とし、また諸制限を厳しくした。ことに城地修築の制限は厳しく、後継者問題についてはみだりに決めることは許されなかった。幕府体制の整備と共に各領主に対しても体制整備を命じた。なお一万石以上を大名とし、未満は旗本その他とした。大田原氏、大関氏は大名に、福原氏は旗本(交替寄合)として遇せられた。
 大田原氏は小田原戦後秀吉より七千百十四石の本領安堵を許され、さらに慶長五年(一六〇〇)八月より慶長七年(一六〇二)十二月にわたり徳川氏より四千三百壱石四斗三升一合の地の加増を得たものであろう。それは次によりうかがえる。すなわち前記秀吉朱印状写文書後半部に次のごとく記されている。
   一、弐百石          竹貫御替地西方郡小薬村
   一、百六拾石八斗       同  七井内  大平村
   一、弐百七石壱斗弐升八合   同  七井
   三口合五百六拾七石九斗弐升八合也
   右何も竹貫之御替地也
    元和四年の春ニかわる
   一、弐百五十三石仁斗升八合       うつのミやノ内 いなけた
   一、百五十七石仁斗六升         同  志いかい
   一、八拾九石七斗三升五合          いはき竹貫石川郡 山上
         (註、右の如く原本抹消しあり)
             八十九石七斗三升五合 七井村 右之替り
     以上五百石也
   一、三百弐拾仁石仁斗九升四合      いなけた 佐藤源左衛門
   一、八拾八石壱斗九升四合        同 ふうじと
   一、八拾九石七斗三升五合              奥州石川郡竹貫内 山上
         (註、右の如く原本抹消しあり)
             八拾九石七斗三升五合八七井之内 右之替り
     三石以上五百石也
   惣郡合壱万弐千四百拾五石也
    慶長十八年三月七日ニ郷方御奉行衆
           伊丹喜介殿内  根本太郎左エ門殿
   右竹貫のかゝ(は)りは元和四年ニ替候
   替候口へ打越請取候衆 持主 金右衛門 花押
             筑後守
             監物 対
             〓左エ門対
             九左エ門対
   右御朱印之写し此とほり也
      御加増被下置年月之覚
   一、森田八百石ハ子(己)子ノ八月上旬
     右是請取奉行 九左エ門 作右エ門 有時刻知行割之時ハ正右エ門も参候
   一、祖母井 いなけた 上延生 竹貫ハ とらの年ノ極月被存候 次ノ卯の年ノ正月知行を御請取組
     右是請取奉行
                    監物と九左衛門
   大閤以来御当代ニ至テ大田原備前守知行高御朱印之写し     かみ数 弐枚也
と記してある。
 これをもって見ると森田郷八ケ代、大金、小塙、入江野八百石の加増は子子の八月上旬とあり、これは丁子年の誤記で慶長五年(一六〇〇)、さらに芳賀七井の内祖母井、上延生、いなけた、いわき(福島県)竹貫、石川郡山上、田口、那須の内せば原はとらの年極月とあるところより慶長七年(一六〇二)十二月の加増であろう。前者は関ケ原戦直前、後者は江戸幕府開設直前でいずれも内密の加増であった。大坂夏の陣が終ると徳川氏は各領知の整理をなし、大田原氏は元和四年(一六一八)いわき竹貫の山上、田口と芳賀郡小薬、大平、七井の五百六拾七石九斗二升八合が替地となっている。しかしいずれにしても一万一千四百十五石余の領知には変りなかった。