一、父典清は、将軍家直参となり、数々賜謁した。所領稲毛田邑は、幕府直賜のもので、大田原に於てほしいままに没収するは不当である。
一、父典清は、備前守晴清の実弟にして、幼時その養子となり、大田原宗家とは、最も深き姻戚なれば、みだりに家名を断絶すべからざる事。
一、大田原山城守家臣の奸曲数ケ条を申立つること。
依て幕府は山城守高清を幕府に出頭せしめて、事情を質した。取調べの結果、延清の訴願は理由なきものとなり、山城守高清並那須衆大関、福原、伊王野、芦野、等列席の上、黒川丹波守、戸田作右ヱ門より仰せ渡された。
一、父典清、公儀の直参となり、知行を賜わり、且御目見えせりといふも確かなる証拠なし。
一、父典清直参として、曽て老中に面謁せしことなし。
一、故備前守政清、江戸に在りて、公儀に於て諸役を仰付けられし時、すべて備前守家来として相勤め来りしこと。
一、前主水正典清が幼少の時、故備前守政清の養子となりしといえど、その年月に相違ある事。
一、山城守家来に私曲ありといえど、その申立てをなさざる事。
以上の事由によって、主水延清は、主家に対し、逆意を企つるものと裁決が下り、延清並に嫡子権平、次男武助を、伊豆新島に流罪に処した。寛文八年(一六六八)十月十四日のことである。徳川実記、厳有院殿御実紀巻三十七、寛文八年十月条、
十四日、大田原山城守高清旧臣大田原主水、並子二人、豆州神津島へ流さる。こは主水が釆邑公より賜はる所なるをもて、度々朝見に列するよしいふといへども、其証更になし。府に参りて、これまで老臣の邸へも、まかりし事なく、今処士となりて、さる事申し出るは、いとひが事なり。かつ故備前守政清、大坂駿府の番つとめ、工役の仰蒙りし時も、家士と同じくつとめ来りし上は、こたび訴ふる所、裁許に及ぶべからず。また主水は、故備前守政清が養子の契約せりと申といへども、年月齟齬し、また初には山城守高清家士姦曲のことども、注記して呈せんと申、後には注進することあたはずと申、彼是の所是の所為整はざればなり(日記)
延清父子の遠流を徳川実紀には神津島とあり、大田原文書には、大島とあるが、新島流人帳には新島とある。そして延清次子武助は、亡命して行衛を暗ましたが、その十五日逮捕せられたと実紀に見える。
考えるに主水延清没邑のことは、大田原系図典清条に、
至于長男主水延清、寛文中、有故流罪被仰付、二代而断絶。二男弾右衛門長清、為別家、子孫有之。
とありて罪状を明記しない。しかし大田原文書に、延清の父主水正典清は、寛文六年(一六六六)二月十五日死去とあるを見ると、恐らくこの事件は、延清相続問題に起因したもののようで、山城守高清は、典清の死を機会に、延清が稲毛田家継嗣の器でないことを言いたて、釆邑を没収したものと考えられる。
次に典清が備前守政清の養子となる内約があったことは、晴清が慶長十七年(一六一二)四十六歳、初めて長子政清を儲けたので、あるいは己に実子なしとし、幼弟典清を養子に定めようとしたのではないかとも考えられる。
また典清の領邑稲毛田村五百石は、幕府より賜う知行所と称するのは大関家文書に、
源家康公より、大久保相模守、本多佐渡守二人、有二台命一那須衆知行高被レ定。資増と大田原備前守へ被レ下書写
と記し、その内に、
那須衆知行高覚
一、一万二千四百十五石、大田原備前守
此内従二公儀一、家中之者へ被レ下候。左之通、
五百石 大田原主水
五百石 大谷長佐衛門
とある。延清の申立てる稲毛田五百石は、即ち幕府より直賜せられたるものであろうが、これを傍証する資料がない。
なお政清の次子、高清の弟長次郎為清に稲毛田千石を分知したことが、大田原系図に見えるが、将軍御目見等年月不知と記し、しかも為清早世して、其家一代にして断絶すとある。これ必ず延清没邑の事に関連のあることが推知されるのである。即ち為清に封邑を分知するために、事に託して、敢て没邑の挙に出たとも考えられるのである。
なお山城守高清には男子がなく、母方織田政時長男主膳を迎えて家女に配して十八代の藩主とし、備前守典清と称したのは、稲毛田典清の慰霊のためではないかとも言われている。