第四節 大田原氏一門の継嗣問題

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 元禄十二年(一六九九)五月、和泉守純清病篤く、命旦夕(たんせき)にせまり、しかも子供がなかった。老臣など相談し、外戚織田勘蔵を迎えて後嗣と定め、養子願を老中仙石伯耆守をもって幕府に差し出した。そして自ら一書を裁して家老大田原権兵衛、用人内山与次右衛門を大田原城に遣して遺旨を重臣に伝えしめた勘蔵の父吉清は、祖父備前守政清の三男で故あって母方織田家の姓を称した。勘蔵はその三男である。書簡の全文は、内山文書御記録抜書に載っている。
我等、今度病気重に付而、若病死候はゞ、為養子、大田原勘蔵儀、家督相続被仰付下置候様、御老中迄奉願、仙石伯耆守殿江、判元懸御目、願書我等直相渡差上候。若令病死候時之為に而候へば、於令快気は、勿論勘蔵儀、如前々にして、若病死候而、勘蔵儀、家督相続被仰付置候はゞ、対勘蔵、聊以無別心、急度奉公可相勤者也。
  五月十八日   和泉
            御直居判
                     大田原市兵衛殿
                     杉江市之進 殿
                     山田忠平  殿
                     内山平二郎 殿
                     大田原平介 殿
                     豊田与惣治 殿

(内山文書)

江戸家老大田原権兵衛、諱は政康、備前守政清の五男、清信の叔父に当る。延宝年中、出でて家臣となった。老職にあり秩四百五十石を食んだ。後故あって永の暇となり、那須三本木村に退去し、性名を高瀬平馬と改め、遂にここに終った。内山左介、諱定寛、後与次右衛門と称した。五代の主君に歴任し、物頭上席に進んだ。定寛撃剣に兼ねて槍術に長じ内山流を創めた。大田原市兵衛、諱は資世、備前守政清の四男、大田原主計資清の聟養子となる。当時城代家老の職にあった。杉江市之進、諱は武利、明暦二年年十五、備前守政清の近待となり、山城守高清の時家老になった。小笠原礼法、弓術、また剣法に達し、一藩の儀長と称せられた。其他これを略す。二十三日純清ここに卒去す。享年二十三。是において、二十九日勘蔵江戸に登り、広尾下屋敷に入る。内山文書に拠れば、「六月二十五日四ツ過、朽木伊予守様、織田内匠様、同能登守様、甲斐庄右衛門様、御内用有之御出、八ツ半過御帰」とあり。また「同日大田原権之丞、山田忠兵衛方江、右御四人様、御連名の御状、内山左介、大谷伊佐衛門江被仰付、御案文、於御前認、左介手跡にて被遣候。右御用何茂とも、一圓御沙汰無之」とある。同日小頭作大夫、足軽両人、申刻、江戸邸を出発し、大田原に向った。また七月朔日条に「従御在所、以飛脚、御一門様方江之御請差越之候」など記録に見えるのは、継嗣問題について大田原一門並びに老臣の間で、種々工作が行われた消息を物語るものである。しかして七月十九日、純清願置の通り養子を仰付けられ、二十八日、初謁の礼を執った。十二月十八日叙爵して諱を清信という。在位僅に四年、享年二十二をもって元禄十五年(一七〇二)十一月、江戸に卒去した。