我等、今度病気重に付而、若病死候はゞ、為二養子一、大田原勘蔵儀、家督相続被二仰付一被二下置一候様、御老中迄奉レ願、仙石伯耆守殿江、判元懸二御目一、願書我等直相渡差上候。若令二病死一候時之為に而候へば、於令二快気一は、勿論勘蔵儀、如二前々一にして、若病死候而、勘蔵儀、家督相続被二仰付一置候はゞ、対二勘蔵一、聊以無二別心一、急度奉公可二相勤一者也。
五月十八日 和泉
御直居判
大田原市兵衛殿
杉江市之進 殿
山田忠平 殿
内山平二郎 殿
大田原平介 殿
豊田与惣治 殿
五月十八日 和泉
御直居判
大田原市兵衛殿
杉江市之進 殿
山田忠平 殿
内山平二郎 殿
大田原平介 殿
豊田与惣治 殿
(内山文書)
江戸家老大田原権兵衛、諱は政康、備前守政清の五男、清信の叔父に当る。延宝年中、出でて家臣となった。老職にあり秩四百五十石を食んだ。後故あって永の暇となり、那須三本木村に退去し、性名を高瀬平馬と改め、遂にここに終った。内山左介、諱定寛、後与次右衛門と称した。五代の主君に歴任し、物頭上席に進んだ。定寛撃剣に兼ねて槍術に長じ内山流を創めた。大田原市兵衛、諱は資世、備前守政清の四男、大田原主計資清の聟養子となる。当時城代家老の職にあった。杉江市之進、諱は武利、明暦二年年十五、備前守政清の近待となり、山城守高清の時家老になった。小笠原礼法、弓術、また剣法に達し、一藩の儀長と称せられた。其他これを略す。二十三日純清ここに卒去す。享年二十三。是において、二十九日勘蔵江戸に登り、広尾下屋敷に入る。内山文書に拠れば、「六月二十五日四ツ過、朽木伊予守様、織田内匠様、同能登守様、甲斐庄右衛門様、御内用有レ之御出、八ツ半過御帰」とあり。また「同日大田原権之丞、山田忠兵衛方江、右御四人様、御連名の御状、内山左介、大谷伊佐衛門江被二仰付一、御案文、於二御前一認、左介手跡にて被レ遣候。右御用何茂とも、一圓御沙汰無レ之」とある。同日小頭作大夫、足軽両人、申刻、江戸邸を出発し、大田原に向った。また七月朔日条に「従二御在所一、以二飛脚一、御一門様方江之御請差二越之一候」など記録に見えるのは、継嗣問題について大田原一門並びに老臣の間で、種々工作が行われた消息を物語るものである。しかして七月十九日、純清願置の通り養子を仰付けられ、二十八日、初謁の礼を執った。十二月十八日叙爵して諱を清信という。在位僅に四年、享年二十二をもって元禄十五年(一七〇二)十一月、江戸に卒去した。