第五節 大田原富清大坂にあって没す

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文久二年(一八六二)三月、富清請暇をもって、封城にいた。本年は大坂城加番役を命ぜられ、鳥羽藩稲垣候、田原藩三宅候、結城水野候等と、八月任地に赴くことになっていた。四月二十二日大田原城を発駕して二十五日江戸邸に着き、五月朔日柳営に登り将軍家茂に謁見して、参勤の御礼を申上げた。しかして七月十八日、大坂へ発足の予定であったところ、そのころ富清は高熱を発して容体勝れず、二十日侍医北条亮釆、宇野良貞拝診するとと麻診の症状が見えるので、緩和発疹の薬湯をさし上げたのであった。以下亮釆が随時御用番に提出した「上様御容体書」に拠て記述する。
 七月二十三日、富清は顔面並びに胸膈に少々赤斑を発したので、翌朝佐竹文敬を招き、立会診察の上、葛根加石湯を服用した。二十五日、文敬調合の小柴胡黄連加石湯を差上げたところ、翌日昼ころに発疹開花した。二十七日また文敬は同薬場を進めた。食事は数日来少量を摂取しただけである。八月朔日に至って体温昂進し脈博多く、舌苔薄く、食事は平常通り、また便通もあって安眠した。翌日は咳嗽(がいそう)(せき)頻りに発し、面部にまた赤斑現われ、六日には全躯に拡がった。この時鏻姫、若殿、銈姫などまた麻疹に感染したのであった。
 かくて十数日静養して、漸く快復に赴いたので、幕府に大坂発程の届書を差出した。
私儀、当秋大坂為御加番代、去月十八日、御当地発足可仕候処、追々奉伺 発足延引仕候。然処稲垣信濃守快方之由、私儀も兼而申上候通、流行之痲疹ニ付、無油断、療養差加へ候処、快方ニ付順々出立可仕候。依之来十九日押て発足仕候。此段以使者申上候。以上

      八月十二日  大田原飛弾守
そして大坂在番中、留守の諸士に心得方を申渡した。
         目付江
一、大坂御在番中、兼而被仰出候、御法度之義、堅相守、物静ニ相心得、可有勤仕事。

一、御家中侍分、他出の義、親類之内、吉凶之義ニ付、不参候而ハ、難叶事於之者、其趣役人江申達、可差図、たとえ御領内たり共、一里余ハ右に准じ、其向へ相届、可差図候事。

一、御家中参会之儀、別而夜分会合、並遊興等之儀、堅令停止、無拠子細有之参会候とも、質素ニ可相心得候事。

一、諸願之儀、不差急候義ハ、惣而御帰府以後相願候様可致候。勿論差掛り候儀ニ而茂、一応月番之御家老へ相伺相願候様可致候事。

       但支配有之面々ハ、其頭々より惣内意可相願候事。
一、兼而被 仰出之候通り、諸士之面々、文武之両道、弥以無怠修行可致義、肝要之事ニ候。併し御在番御留守中は、向々御人少之義ニ而、繁勤之事ニ茂有之、右等之処より、自然と怠勝ニ相成候様ニ而は、被 仰出之御趣意相立不申、其上当前之儀心得にも可之事ニ候ヘ共、無油断相励候様可致候事。

一、御留守中、向々格別之御人少ニ候得は、御平常之御繰合等、御行届不成、繁勤之事に有之候共、面々御用弁第一ニ相心得、精勤可致旨、被仰出候。

一、勤仕之面々、病気は無余義事ニ候得共、為差病躰ニも無之、永々引込居候ものも有之、心得違之事ニ候。依之十五日余も引込居候ものは、其病体ニ寄、不時に、御医師、御徒士目付相尋候之儀ニも可之、此旨兼而相心得居リ可申候事。右之通被 仰出候、

      右之趣御家中諸士之面々へ不洩様可被相触候。 戌八月
又同日附をもって大坂加番御供のものえ対し、次の触書を発した。
大坂御供之面々、留守宅、又ハ無拠用向有之、文通候節、遠国之義、於面々ニも、差支之訳も可之ニ付、御在番中、大坂江之書状、月々六日、十六日、定便御用状差出候付、其節一同差遣候間、成丈致小封、前日御吟味役迄差出可申候。

   右之通、御家中江為心得、可相達候。
       戌八月廿四日
このようにして、大行李六箇、「大坂御加番大田原飛弾守納戸荷物」と荷札をつけ、日本橋廻船問屋にさし出した。
八月十九日、次の供揃で江戸を立った。
   家老      大田原数馬
   御用人     阿久津権六、阿久津新五郎
   御鉄炮方    阿久津丈右衛門、阿久津長右衛門
   御破損方    伊王野守人、土屋群右衛門
   雁木坂御番   権田峰蔵
   御医師     北条良釆
   御徒目付    飯村万蔵、阿見健蔵
   御祐筆     大橋八郎
   御賄      飯村弘人、斎藤邦之允
   元締      石川政右衛門
   御払方     相山羊三
   御先供     池沢兵助、金枝幸之進、印南昇之進
   御側      田辺源左衛門、猪服左市
   御供頭     松本豊之助、阿久津又次郎
   御近習     杉江求馬、阿久津直三郎、江連亀八郎、若色兼次郎
   御馬役     郡山政五郎、八木沢文四郎、羽柴孫四郎、平井儀八
二十三日、駿州島田駅に来たところ、折柄大井川洪水のため、一日逗留を余儀なくされた。閏八月一日伏見宿から乗船、淀川をくだって二日守口八軒屋東堀の船着場を上り、本陣に入った。しかして六日前任者と交代して大坂城に入ったのである。
 富清は、上国の途中、浜松駅あたり両脚に浮腫が起り、麻痺して痛むので、侍医亮釆は、散薬ヂキタリス、カロメル、酒石英、ソイクルミ、前薬芦根、杜松子、接骨花、橙皮、甘草を差上げたところ、浮腫は少々減退したが、依然たる容体のまま、無事入城はすんだものの、下脛の麻痺は日を追うて募り、下腹より臍上におよび、十六日ころ、歩行は全く困難となり、間歇的高熱がつづき、発汗殊に甚しく、且一日に両度嘔吐を催すので、板倉候侍医森田葆庵、稲垣候侍医渡辺栄斉、松平伊予守侍医小野東庵などの診療を受け薬用したが更に其効を見ず。十八日、町医緒方拙斉の診察には、病はすでに心臓が冒され、鬱血して仮焮衝(きんしょう)(体の一部がはれて痛むこと)の症状を呈し、脚気衝心の恐れもありとて、予防の為瀉血を行い、煎薬、芦根橙皮、蜀羊泉、アルニカ花センナ葉硝石、散薬は甘汞ニリンヂキタリス、ミリレケルモメス、ホラーレアリン、ヒヨスヱキス、ソイクル、葛など調合服用した。食事は、毎日粥を軽く二盛半あるいは一盛半程を喫した。小水は、一日両三回、一回に一合または七八勺を排し、大便は二日程なく、十九日夜に至り、始めて硬便を通じ、蛔虫一条を発見したので、サントニネ六グラムを服用した。その後食欲に異状はないが脈博極めて不整にして、便通は小量の粘液を混し、小便は、一日に両三度、一回七八勺乃至一合五勺位であった。また体温昂進のため煎薬芦根、橙皮、蒲公英、〓那〓砂の外に、規尼十五グラムを五包に分けて服用した故か発熱は降下したが、少々咳嗽が出るようになった。浮種は一向ひく様子なく、且聴力次第に衰え、両便は全然なくなった。依て二十五日夜灌腸術を施し、多量の宿便に滑液を交えて快通した。小水はなく、下腹の苦痛が激しいので「カテーテル」尿方術を施したところ、程なく一合五勺(〇・二七リットル)の尿通があった。二十六日正午には、小水膀胱に充満して苦患のため、またカテーテルを施したるに、赤色血の尿四合余を排出し、気分快くなった。亮釆の閏八月二十六日付容体書に、
愚考仕候に、御頭痛、又は御臍上迄の御麻痺は、御膓(ママ)中、又は膀胱迄麻痺にて、この上御両便快通にもあらせられざれば、自然御水気も入らせられ候か、其上御衝心、且は急卒の程も、乍恐難計奉存候。

     上下略
とある。富清の病状にあるや、家老大田原数馬を始め、扈従の士憂慮措かず。侍臣を玉生稲荷、天満橋天神宮、玉生明神、能勢妙見大士等に代参せしめ、ひたすら平癒の祈願をこめたのであった。
 更に九月二日認めた亮釆の容体書によれば八月二十六日夜、下腹の苦痛を訴えて、終夜一睡せず、灌腸あるいは「カテーテル」にて、両便を通じわずかに安眠せられた。二十七日緒方拙斉来診を乞い、芦根、蜀羊泉、亜児尼加花纈草、ラバルスートの煎湯、散薬は、ジキタリス二リン、カロメル同、ケルメル、ミネテーン一リン、カヤフーテ油五滴、カンキリ一分を一日量に服用したるも、二十八、九日頃より、身体おいおい衰弱胸部苦痛相加わり、ヒヨスホフマンの類を数回差上げたるも煩悶次第に募り、九月朔日朝六ツ時、両便三、四回自然に排泄した。しかして痙攣頻に発し、四肢冷却、発汗するので、麝香、ヒヨスホフマン(強心剤)などを差上げたと記している。かくの如く医薬に百方手を尽くした効もなく、その夜亥ノ刻(四ツ時半)卒去した。家老大田原数馬より、飛弾守富清死去の旨を城代に届け出たところ、表向き病気の体にて相勤むるようとの指図であった。依て遺体は一先ず瓶に納め、三日白羽重の襦袢に長上下を装い、棺中に安置した。葬式用具は、家士とも人の気付かざるよう、一品宛を買集めた。また急飛脚を江戸にたてて、九鬼長門守、同大隅守邸に訃報を告げしめた。
     中仙道を経て帰城
 十月二十一日、夕七ツ時(四時半頃)大坂城を出て、暮時網島弘誓寺に止宿した。大田原数馬は鮒宇の隣なる某家に、諸士は鮒宇に泊った。二十二日七ツ時、弘誓寺出発、折柄風雨のうちに舟で淀川を下り、翌五ツ時、直に同所出立、大津を経て薄暮草津着、二十四日美濃路に入り高宮泊。二十五日柏原昼食赤坂泊。翌日は鵜沼に泊った。二十七日御岳昼休み、大久手泊。二十八日、十三峠の難所を上下し、大井を経て落合に泊る。二十九日、木曽路に出で、馬籠峠を踰えみと野に昼食し須原に着く。十一月朔日福島の関所を通り藪原泊。二日贄川昼休み、洗馬を過ぎ塩尻着泊る。三日、和田峠西の餅屋にて昼食し、翌日、岩村田昼休み追分に宿る。五日、上州路坂本昼食、松井田泊。六日玉村泊。七日、下野天明宿泊。八日、栃木昼食宇都宮着。九日喜連川昼食佐久山宿泊。十日、早朝藩士一同、佐久山で遺骸を奉迎し、御供揃にて、大田原城下に入り、薬師堂にて少時休憩の後、光真寺に着、御供奉の面々惣門にて下乗した。
 十二日朝五ツ時(八時頃)諸士麻上下着用光真寺に相つめ、大導師を初め大和尚、領内寺院衆僧寺勤行、諸士順次拝礼した。それより諸士本堂前四ツ門を本堂より出棺、北庭には、家老、御用人、左右を居並び、引導中は孰れも平状する。終って御用席の代香拝礼をすませ、歴代先塋の側に埋葬した。