寛永元年(一六二四)正月資景老年(六十二歳)のため子資重が父の後を継ぎ従五位下美濃守と号した。前は与一といい、福原に居城を構え、同八年(一六三一)正月十八日には将軍家光の日光社参に供奉警護の役をつとめ、また日光造営には御手伝人夫を差し出すなど奉仕している。同十九年(一六四二)七月二十五日父に先立って死去。しかも、累年多病のため参勤を怠り、そのために幕府の咎を受け一万石を召し上げられてしまった。しかし五千石は父資景が関ケ原戦以来徳川家に忠勤を励んだ功を哀れみ改めて資景に下賜された。
なおこの際取り上げられた領地は大田原市の内では市野沢、練貫、黒磯市地内では沼野田和、木曽畑中、木綿畑、湯宮、鴫内、百村、油井、三本木、上大塚新田、下大塚新田、山中新田、東沓掛、西沓掛、黒磯、東小屋、大原間、唐杦、前弥六、北弥六、上厚崎、下厚崎、細竹、亀山、岩崎の村々で、元狩野郷および山根といわれたところである。
狩野郷とは、
上郷
前弥六、北弥六、東沓掛、西沓掛、唐杉、上厚崎、下厚崎、黒磯、細竹、亀山、油井、岩崎
中郷
三本木、木曽畑中、沼野田和、大原間、東小屋、山中新田、上大塚新田、下大塚新田
下郷
市野沢、練貫、鍋掛
山根
百村、湯宮、鴫内、木綿畑
(室井家文書)
なお資景へ下賜されたのは大田原市内では福原および三斗内、鷹巣、八木沢、中居、若目田、岡和久、滝野沢、沼、青木、小種島、三色手、宇田川、下川下の各村である。(延宝二年争論図、大田原市、森重氏、手塚誠治氏各保管)
資重の没年は三十四才、子がなかったため後嗣問題につき家中に争が起り五十人方二十人方に分かれ互いに抗争したが、ついに五十人方が勝ちを占め増山弾正正利(下館城主)の弟友之助を迎え後嗣とすることに決定、慶安五年(一六五二)正月迎え入れた。これが那須遠江守資弥(みつ)で那須家の継嗣となる前は友之助、そして資国または資祗(まさ)ともいった。(伊王野氏蔵那須系譜)資弥は将軍家綱の叔父(家綱の生母於良久の方の弟)にあたり、那須家に来る前すでに二千石を領しており、那須家の継嗣となるにあたっては先に取り上げられた一万石中の五千石を再下賜され、さらに延宝九年(一六八一)二月二十五日八千石の加増があり、再び烏山に本領を得て二万石の大名となって福原より烏山城へ移っている。(那須系図)なお一書にこれを天和元酉年(一六八一)二月二十五日と記しているが、これは誤りで九月二十八日までは延宝九年である。
貞享四年(一六八七)六月二十五日資弥六十一歳で江戸屋敷にて没した。長子正弥は早く下館の城主増山弾正正利の嗣子となり、次子は早世、そのため資弥の姉婿津軽越中守信政の二男を迎えて家を継がせ与一資徳といった。ところが資弥には庶子福原図書資豊があったが粗野で物事のわきまえが足らず、到底大名としての器ではなく、そのために烏山の地に五百石を与えて住まわせていた。父の没後自分こそ後嗣たるべき身であるといって、これを幕府に訴え出た。幕府では老中戸田山城守がこれが取調にあたり、「先主の実子あるにもかかわらず他より入りて藩主となるは不届なり。」として、貞享四年(一六八七)十月十四日烏山城領二万石および江戸屋敷のすべてを召し上げ、ただ那須を称することたげが許されて父津軽越中守へ預けの身となった。また父津軽越中守信政も不届なりとして閉門を仰せ付けられた。
この後元禄十三年(一七〇〇)五月二十日、前将軍家綱二十一回忌に赦免の命があり新知一千石を下賜されて若年寄支配寄合に列せられた。さらに元禄十五年(一七〇二)二月三日福原館および同所千石の領知を許され、宝永五年(一七〇八)四月五日老中支配寄合となり江戸城中柳間詰の席を与えられて幕末に至っている。なお津軽氏も元禄年中閉門を許され、那須氏には二千石を助け扶持としている。
このようにして貞信以来那須の名家として栄えてきた那須氏も、わずかにその余命を保った過ぎぬ存在となってしまった。