第六章 代官の天領支配

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 本項では山口高品(たかかず)(鉄五郎)代官の天領支配の事例を中心として記すこととする。
 江戸幕府はなんといっても農村を基盤として成立した封建政権であった。したがって、幕府財政の供給源の中心は、あくまでも天領における貢租におかれていたといってよい。
 そのため幕府は封建的な支配関係を強固なものにするために、はじめから積極的に天領の増加に努めていたのである。まず豊臣政権の滅亡、諸大名の改易・減封によって没収した領地は、一部を思恵的に大名に再配分したほかは、これを天領に繰り入れていくという方法をとっていった。こうして幕府の天領はやがて四百二十余万石という政治的、経済的、さらには軍事的にも諸大名を制圧するに足りうる圧倒的な大きさをもつことになるのである。しかも、天領は老中または勘定奉行の配下に属する郡代、代官という地方官僚によって、集権的に管理を行なう支配体制が整備されていったのである。そして幕府は初期以来たびたび代官の業務について指令を発していたが、ここに五代将軍綱吉の諸代官への訓令を挙げてみよう。
一、民は国の本也、御代官の面々、常に民の辛苦を能察し、飢寒等の愁これなき様に申付られるべき事。

一、国寛なる時は民奢(おごる)もの也、奢ときは己が事業に懈(おこた)りやすし、諸氏衣食住諸事奢なき様に申付らるべき事。

一、民は上之遠きゆえに疑有ものなり、此故に上よりも又下を疑事多し、上下疑なきやうに、万事念入りに申付らるべき事。

一、御代官之面々常々その身をつつしみ、奢なく民の農業細にこれを存知、御取箇等念入宜敷様に申付らるべく候、惣て諸事、手代に任せず、自身勤らる儀肝要に候、然時は、手代末代迄私これあり間敷事。

一、面々の儀は申に及ばず、手代等に至るまで、支配地の民私用に使わず、並金銀米銭民より借用、又は民へかし申さず様に堅く申付らるべき事。

(「御当家令条」より)

 天領における代官の民政の如何は、当然、幕府政治の可否を大きく決定することにもなるので、一部の世襲代官を除けば、郡代、代官の転任や新任、免職は、元禄年間以降目まぐるしくおこなわれているといってよい。
 そして、また、元禄・享保期以降から胎動してきた封建的な危機(商品・貨幣経済の発達)は、田沼時代からいよいよ深刻なものとなってくるが、このためには、もはや年貢をただ増加するだけでは、天領の農政は効果を上げることができなくなっていたのである。そのため、年貢負担者の数を確保することを急務として、その負担に耐えられるように農民を保護することによって、農村の復興策を強力に押し進める必要が生じたのである。
 山口高品(鉄五郎)が代官として登場したのはこのような社会であり、また、天明以来の飢饉が相次ぎ、農村の疲幣が最も著しいときであった。
 高品は通称を鉄五郎といい、越後国蒲原郡の人だということであるが、その素性など今のところ判然としない。ただ、
 山口鉄五郎ハ越後蒲原郡の人、年十八歳ノトキ一時江戸ニ遊ブ、後チ徳川氏ノ代官トナリテ、文化中那須郡八木沢村ノ陣屋ニ居リ、専ラ新法ヲ以テ百姓ヲ賑給スルノ意アリ。  (以下略)

と喜連川藩儒秋元梅園著(下毛郡括)にある。とにかく山口代官の幼少から青年時代の様子は知る由もないが、寛政五年(一七九三)三月、下野国都賀郡吹上村(現栃木市)に代官陣屋が設けられたとき山口高品は美濃郡代鈴木門三郎正勝の手代から関東代官に任ぜられ、吹上に赴任したといわれる。
 当時の吹上陣屋の支配地は、下野那須郡のうち五十八か村、塩谷郡のうち四カ村、石高一万八千七百余石のほか、同国の都賀、河内、芳賀郡、さらに武蔵国の一部を加えて、合計五万石であったという。那須郡の各村は年貢収納その他の便宜のため八組に分かれていたが、この実態は第一表のようであった。
第1表 吹上陣屋の那須・塩谷両郡支配地
(村上直著「天領」所収)
那須郡村数石高
八木沢組63,650石1斗9升田租
片府田組82,485石9斗6升5合
浄法寺組154,353石8斗9升
市野沢組21,262石3斗4升9合
鍋掛組32,237石7斗8升4合
5組計3413,990石1斗7升8合
百村組41,374石4斗4升9合畑租
北弥六組121,380石6斗2升6合
東小屋組81,399石6斗5合
3組計244,154石6斗8升
塩谷郡4635石7合
合計6218,779石8斗8升4合

 高品は赴任の翌年正月、那須の名主らに対して、吹上に新たに陣屋を設けた趣旨を申し聞かせた。その村々の請書によると、
一、此度吹上村江、新規に御陣屋御取建被遊候趣意は、強而御取箇を御取増可被成儀には無之、近年百姓の風俗奢侈に相成遊惰にて農業怠り、連(しきり)に手余荒地等も出来候には、右体の不宜風俗を改一途に相成、困窮立直候様御取扱可被成との御趣意に候間、其旨得と相心得、大小の百姓水呑に至迄行状相改農業一途に差はまり、其村々役人共心を付、聯心得違無之様可致候、若心得違のもの有之ば御取締のため急度御仕置可被仰付事。

このほか
   一、五人組帳前書を守り、風俗を正しくする事。
   一、博高賭の諸勝負の禁止、儀式の簡素化。
   一、村入用の節約。
などの施政の方針を明らかにした。そして、また別に教書を下して、善行を勧め、悪事を徴らし、賞罰の道を明らかにした。
       覚
一、公儀を重んじ、主人に奉公能く務め、親に孝を尽し、兄弟親類朋友と睦敷きもの

一、農事に精を出し、暮し方節検を用い、慈悲の心深く狐独を憐み、若きもの共の見習いも可成き程のもの。

一、家業の透に、筆算学文をよく心掛け、律儀にて素直なるもの(後略)。

 以上のようなことはひとり高品の方針であったというのではなく、農民の奢侈、遊惰を取締り、賞罰の道を明らかにし、もって荒廃村の復興を計った寛政の改革の一還であったとみるべきであろう。