第一節 八木沢出張陣屋の設置

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 幕府の代官が地方に赴任するときは、一応陣屋の建設費として六十両を年賦返済を前提として貸与される。そのため、この吹上陣屋設置に伴ない、村々では村高百石につき、永十六文づつ五年間にわたり拝借金の返還のため取立てられたのである。村高千二百六拾九石六升七合の鍋掛組の伊王野村には、次のような陣屋取立年賦請取書が残されている。
        覚
   一、永壱貫八百三拾八文事 伊王野村
     右者去申年分陣屋入用郡中割中面々之通上納 仍如件
                         申十二日
                              山口鉄五郎手代
                                 飯岡直蔵
これも一つの陣屋役ともいうべきものである。
 この吹上陣屋では、支配地が比較的遠距離にあるため、とくに那須郡の村々の不便を除くため、享和三年(一八〇三)の八月には、奥州道中の大田原城下と佐久山駅の中間の人馬継立の伝馬宿である八木沢(親園)に出張陣屋を設けている。
 八木沢宿の人口は、寛政八年(一七九六)六月の村書上書に「惣人別三百九十六人」とありその後の文化十四年(一八一七)には、「家数百三十七戸」あって、街道に沿って東側三十九戸、西側四十二戸が軒を並べ、人口五百八十四人を数えた。往き来の人馬は日に日に賑ったのであり、高品がここに出張陣屋を構えたことは、行政上最も適当な選定であったというべきであろう。
 八木沢陣屋は字仲丸にあり、六角形造りの天地四方をかたどった建物で、常に突棒、差手または袖搦の三つの道具が備えられていた。陣屋内には、手附、手代、書役の住宅小屋や長屋があり、代官陣屋の奥座敷八畳上段の間が代官が出張する際の宿泊所になっていた。その部屋の長押には火繩銃や槍、鉄扇が備えてあったという。このように代官と手代の部屋は明らかに差別されていた。
 この陣屋を中心に山口代官は多くの治績を残している(写真1)のであるが、山口代官が文政四年(一八二一)五月死去すると、八月には竹内平右衛門の当分御預支配となり、翌五年には古山善吉代官が任ぜられたが、文政六年(一八二三)三月十日、二十年間存続した八木沢陣屋は引払いになり、吹上陣屋とともに真岡陣屋に併合されたのである。

写真1 山口代官年貢請取書
黒磯市北弥六 室井信雄氏蔵

 八木沢出張陣屋は五年間という期限つきのため、その都度農民よりの延期嘆願書が提出され採択されていたのである。
(上略)当御代官様御儀、寛政五丑年より御支配遊ばされ、御教書御下しなし下され、其上時々御廻村、毎度愚昧の者まで拝状仕候様御教訓これあり、尚またかん寡孤独の類極難渋の者には、品々御手当なし下され、難有感服仕り、追々風俗迄も相直り、農業出精仕候ところ、尚去亥年より申年まで十か年の間、御下カ金を下され、那須郡村々御取建として中居八木沢村に出張御陣屋御取建、諸事厳重の御取計の上、小児養育御手当潰退転或諸役高懸物村弁納の分下し置かれ、かん寡孤独の類は勿論困窮者聟嫁養子引取の者、病人其外難渋者迄夫々御手当なし下され、格別荒地多分の村々江は入百姓仰付られ、皆畑にて難渋の村々江も新規用水御普請なされ、追々新田茂出来、尚亦村々永続として漆木御仕立、其外品々御哀憐の御手当成下され、莫大な御救御仁恵の御取扱故、老若共に誠に屈状仕

(下略)

これは八木沢陣屋引き上げに際し、那須、塩谷六十二か村の名主などが提出した延期嘆願書である。これを読めば、高品がいかに心を民事に用い、力を疲幣している農村の救済においていたかが知れよう。

第1図 関東地方代官陣屋配置図 (村上直「天領」の所収)