第二節 北陸農民の移住政策

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 山口代官の天領支配の中でも特筆すべきものに北陸農民の移住政策があろう。
 高品は越後、加賀の北陸農民を支配地の荒蕪地に移住させ、三年間を無税として、これらの移住者には家作普請金や手当金を与えて生活の安定をはかり、領内の農村復興に努めた。寛政六年(一七九四)高品は村役の心得を告諭した。その中で、
   那須郡金枝村に入百姓五六軒この春引越させるにつき、明(ママ)屋を手入しておくこと。
とあり、入百姓即ち北陸農民の移住の段取りを在住農民にさせておいたのである。
 前掲の「下毛郡括」には、
山口鉄五郎ハ文化年中、八木沢村ノ陣屋ニ居り、専ラ新法ヲ以テ百姓ヲ賑給スルニ意アリ。同郡金枝村(現喜連川町金枝)ニ荒地多キヲ見テ、越後ノ余夫ヲ買テコレヲ村北ニ置キ、三年ノ支給ヲ下シテ、其北方ニアル古沼ノ水ヲ引テ新田ヲ開ク、新百姓ト称ス。コレ当国ニ越後、加賀ノ余夫来リ居ル始ナリ、是ヨリ越後ノ人当国ニ来ル。且新田三年ハ税ナキヲ以テ、自ラ力メテ荒土ヲ開発スルヲ喜ブ者来集スル。此人ヲ始トス。其金枝村ヲ開ク大益アルニアラズト雖モ、年月久シフシテ是等ノコトヲ知ルモノナシ。

とある。
 荒廃した農村復興策として北陸農民を領内に移住させることは、北関東の啓蒙的藩主や代官によって行われたのであるが、北関東で最も早く領内復興のため北陸農民を移住させたのは笠間藩で、寛政五年(一七九三)であったが、高品は翌年すなわち寛政六年(一七九四)であったから、高品の民政に対する熱意のほどがうかがえる。
 なお、戦前まで北那須地方の農家で用いられていたわら製丸形の小児のゆりかごは、越後、加賀より金枝村に入植した人たちが郷里の風習を伝えたものだという。
 大田原地区にはどのくらいの移住民があったかは部落によって異なるが、藤田倉雄氏の「大田原を中心とした北陸農民の移住」によると、倉骨村三斗内村、鷹巣村、藤沢村、高橋村、花塚部落、大沢部落、琵琶池部落、平山部落などに移住し、その子孫は現在は恵まれた生活をしていると記されている。
 荒地回復、農村復興のための北陸農民の移住等は山口代官だけでなく、真岡代官竹垣直温、桜町復興の二宮尊徳、真岡、本郷代官岸本武太夫、常陸、板橋代官岡田寒泉、また、谷田部藩に属した茂木、烏山藩、水戸藩、その他の旗本知行地などによっても行われ、多数の北陸農民が北関東に移住をみるに至ったのであるが、山口代官はその先駆をなしたという点で立派であった。
 さて、ここで江戸時代中期以降の北関東の農村がどうして疲幣、荒廃の一途をたどったかをみたいと思う。
 天明二年(一七八二)から連続天候不順で洪水・浅間山の大噴火などの災害がうち続き、そのうえ疫病が流行し、穀物は実らず、米価は高騰し、全国的な大飢饉となった。特に東北・北関東の惨禍はひどく、餓死者、離村者が続出し、窮民たちは都市においては米商人を襲う「打ちこわし」を、農村においては「百姓一揆」を頻発するに至った。また、農村への商品貨幣経済の流入は、自給自足経済の崩壊をきたし、自作農から土地を失って小作人に転落する者が増え、領主は財政難を理由に苛酷な貢租を要求し、その上、過重な諸賦役は農民の生活をいっそう困窮させていった。
 貧窮農民はたびたびの禁令を破って、父祖伝来の地を捨てて他郷に逃亡し、口べらしのため堕胎と産児圧殺による人口抑制法としての間引きの悪習慣が、東北、北関東諸村においては盛んに行われた。これは領内の人口の減少をきたし、領主、代官とも領内の人口増加に努めなければならない結果となった。
 黒羽藩の農政学者鈴木正長は「農村暁論」(創垂可継)の中で、間引きの悪習について次のように嘆き、厳重に禁止したのである。
此の辺の悪風俗にて出産の子をとり上げず其ままひねり殺す事言語道断の大悪なり。人は万物の霊長にして天地神明の徳を備え、三千世界の内、人にましたる尊き物なし、軒に巣くう燕雀も子を養うに心を尽すこと人々の見る所也。しかるに万物の霊長たる人間我が子をわざと押殺し、安全として悲しむ事なく愧るものなきは、大悪風のしみたるにて心は悪獣なり。是を人面獣心という。

このような状態の中で、為政者は荒地、手余田の開拓のために北陸からの農民移住となったのである。
「北国は大凡一向の徒にして、常に仏法に親しみ深きゆえ、人数も多く家業もはげしき国風なれば、彼国に濡れる民俗を引き入れ荒田を開発せしめ、風儀をここに移さば多くの幼児を養うといえども、その悩みなきを見習い、遂に因果の道理を弁えん。血分の子を殺害して何ぞ快しとせん。ここに更に仁政を加えて、かれこれを以って正路に至らしめん。」

(常陸西念寺蔵入百姓発端之記)

ここで明らかのように、北陸地方は綽如、蓮如の北陸布教以来、きわめて浄土真宗(一向宗)の信仰が盛んな地方であり、真宗門徒は胎児殺害を罪悪視して絶対間引きを行わず、ために人口増加に悩み、零細農家が多く農民の困窮ははなはだしかったのである。
 このような北陸地方の事情に加えて、北関東の地は宗祖親鸞上人教化の地であり、下野常陸の遺蹟寺院には、上人の直筆や自作の仏像、名号、絵像などが数多く保存されておったこと、江戸時代における北関東の真宗信仰は懐滅状態で、遺蹟寺院はその維持に四苦八苦であったことなどが、北陸農民の移住が行なわれた理由であろう。それともう一つは、北関東の真宗寺院の僧侶たちは、領主、代官の北関東農民復興のための移住民の必要を知るや、彼らと緊密な連絡を取りながら、北関東真宗教団再興の好機と考えたことによるものであろう。山口代官による支配地への北陸農民の移住策も、高品の北陸農村精通(出生国)、急務な支配地復興、金枝村照願寺による北陸勧化とを考え合わせると、金枝村へ最初に北陸農民を移住させた理由も理解できよう。