高品は寛政五年(一七九三)八月に代官となるや、那須狩野郷の畑作地帯に水利を通じて新田を開き、農村の振興を計ろうとし、六年二月に手代浅野敬十郎に領村の荒蕪地を検分させた。
敬十郎は那須野開拓に穴沢飲用水路を疎通することは極めて有効な旨を復命した。同年九月高品は親しく民情を視察した。これはすでに吹上陣屋へは百村名主甚右衛門が那須野の新田開発について具体的な意見を述べている時もあったので、高品は就任以来用水開さくには深い関心をもっていたようである。
八木沢出張陣屋が享和三年(一八〇三)八月に設置されると、高品は随時ここに来て領村を見廻り、民人の苦しみを問い福利の増進に努めた。文化元年(一八〇四)秋、手代松田新右衛門に命じ、那須開拓のための実地踏査に当らせていたとき、穴沢百姓半次郎という者、「穴沢飲用水路を原方に分流すれば荒地も起返り、村柄もたち直り、自然人別も増加し、村々一統莫大の仕合せ」の旨の願書を差出した。(写真2)
写真2 黒磯市高林にある穴沢用水路水神祭の図
翌二年六月一日より高品は、手代武藤音次郎、大谷覚右衛門を従えて、地方名主の案内で八日間も検分を重ねた。
さて、最終的な用水開さくは、百村地内字穴沢飲用水たる木俣川の取入口を切広げて水流を増加し、油井村を疎通して新たに大輪地原に水路を開き、町続きの鹿野崎、塩野崎、大原間三か村入会地松林内にある延宝年中廃止となった岩崎古堀へほりつけ、更に唐杉地内に通して東小屋に流入するものである。この画期的な工事は延長実に五里(約二十キロメートル)に及び、これによって原野及び畑地が田地に造成された。反別は二百十町八反三畝四歩(約二百二十ヘクタール)である。これを畑成田といい、畑地が水田に変った意である。
この用水路によって恵沢に浴する村落は、百村、木綿畑、細竹、岩崎、唐杉、北弥六、前弥六、東沓掛、西沓掛、大原間、東小屋、三本木、練貫、上大塚新田、山中新田、大曽畑中、沼田和の十八か村であり、これらの村々は水利組合を設け、これが維持と管理に当ったのである。
しかし、那須地方の地層は、玉石および砂礫の累積になるため、流程五里(約二十キロメートル)におよぶ疎水路は中途で逃げ水となり、せっかく植付けた稲も成熟を見ないところが多かった。
高品の死後、山口堀は水路普請も行届かず、用水も年々不足して、文政の末年には既成田の大半は畑地に立戻る状態となった。