彼は寛政七年(一七九五)に支配地の四十二か村に漆木を屋敷や空地などに植付けさせ、その収益をもって村永続基金とした。八木沢漆木植付帳によると、一戸百本ないし、二百三十本、合計三千六百九十七本の植付を行った。そのほか権現堂畑三百本、前原新田二百七十六本、清水川下六百二十四本、ふじ山二百本である。文化三年(一八〇六)二月の漆木成木の調査によると、八木沢宿の植付が四千八百本とあるのをみると、他村の分量も相当数であったろうと思われる。
しかし、元来漆木は、風の激しい土地ではその生育が遅く、液汁は少ないといわれ、那須おろしの吹く原方地方は土質に適応しなかったようであり、山口代官の後も幕末まで続けられたことが記録にみられるが、大きな成果を修めることはできなかったようである。
また、高品は風俗矯正に力を入れた。これは寛政の改革の一還であるが、農村振興の大綱は農民をその土地に安住させ、礼法制度を立てて民心を一新するにあったのである。
凶年飢歳に備えるために郷倉を建てて穀物類を貯える施策も高品の推し進めるところであった。八木沢村有文書には、天明八年(一七八八)より天保二年(一八三一)に至る四十二年間の貯穀帳が残っており、代官辻六郎右衛門富叔(とみよし)の遺制が永く行なわれたことがわかる。
その他、天明の大飢饉以降の凶年の連続は、前述したような間引きの流行となった。これに対して高品は、村内に懐胎者のあるときは名主組頭に命じて出産児の姓名と人数を書き上げさせ、二歳になるまで養育料一か年壱貫文づつ下賜した。これによって人口減少をくい止め、逆に人口増加を計るとともに荒蕪地手余地をなくし、農村の振興をはかったのである。
寛政文化時代は早川正紀、竹垣三右衛門、寺西重次郎封元、寒泉岡田清助、小出照方などの名代官が輩出した。蓋し、松平定信の寛政の改革の大方針が、地方代官へ浸透したと見るべきであろう。山口高品も例外ではなかった。領内六十二か村の名主が八木沢陣屋引き揚げに提出した嘆願書の一節に、
御制事向(政治)、(中略)厳重の御取計、御料所は勿論、私領村々迄茂、取締宜敷候段、誠以御仁恵故と、一統難有仕合奉存候。
とあるのは、それをよく物語っている。
以上代官の天領支配についてみてきたが、本項の記述に当っては、特に人見伝蔵著「蒲ろ碑考」、藤田倉雄著「大田原を中心とした北陸農民の移住についての考考察」を参考にさせていただいたことを明記する、