第五節 蒲盧(ホロ)の碑

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 大田原市八木沢、湯殿山神社入口の右側に一小宇があり、中をのぞくと「史蹟、蒲盧碑」とあり、やゝ尖頭形の平たい自然石に蒲盧をみたいわれが書かれている。(写真3)

写真3
八木沢湯殿山神社の入口にある蒲盧碑

 辞句極めて難解なため一部好事家に話題を提供し、人々の史跡めぐりに一寸のぞいてみる程度のものとなってしまったが、代官山口鉄五郎高品の功績顕彰の碑であるという意味を含め向後多くの方々の研究をお願いしたい。
 本碑を広く世に紹介されたのは故人見伝蔵氏で、先生は昭和二十五年十月、親園青年会にこの碑の成立と碑文の意義とについて講話をし、その後下野史学会に山口代官の業績と蒲盧の碑について発表され、昭和二十九年四月、蒲盧碑考 なる小著を公にされた。
 以下人見氏蒲盧碑考の一部を紹介する。
   一、碑文
余遊 日本国中諸岳之絶頂到下毛三毳山行経那須野甘雨晴朝白雲布地数里之間朔風徐来雲畔乍見兵士何戈北行絡繹舒疾随風似蜃楼而鮮也土人皆曰自古如此称蒲盧或蒲瓠不知誰名余欽按瓠星子宿也傅為玄武武从戈蜃从辰雉化之夏為蒲盧中庸為政正名元孔聖必諸此名即名蓋玄武神気也夫乾坤泰和科門斯開玄武斯還大父母道王者則乎云豈弟君子民之父母言誠矣

      文化第九壬申歳十月吉旦
               高津義克欽識
 
 この碑は高津義克自書の原稿(写真4)を代官山口鉄五郎の手代飯岡直蔵重武が自ら書き改めたものであるので原文と碑文とには稍相違がある。なほ飯岡重武は
   はてしなく、浮世の人にみするかな 那須の野面の ほろのいしふみ
なる自詠の歌を裏面に刻している。

高津義克書の蒲盧碑原稿、二枚とも親園植木孝平氏蔵

   二、全文読下し(以下人見伝蔵氏)
余、日本国中諸岳の絶頂に遊び、下毛三毳山に到り、行く行く那須野を経。甘雨の晴朝に、白雲地に布き、数里の間朔風徐ろに来り、雲畔に乍ち兵士の戈を何(にな)い、北行絡繹として舒疾風に随い、蜃楼に似て鮮かなるを見る。土人皆曰く古より此の如し。蒲盧或は蒲瓠と称す。誰の名づくことを知らずと。余欽(つつし)んで按ずるに、瓠星は子宿なり。伝に玄武と為す。武は戈に从(したが)ひ蜃は辰に从う。雉之を化す。夏には蒲盧と為す。中庸に政を為すは名を正しくすと。元より孔聖必ず此名に諸(お)いて即ち命ぜらる。蓋し玄武は神気なり。夫れ乾坤恭和にして、科門斯に開け、玄武斯に還(かえ)る。大父母の道王者は則る。詩に云わく豈弟の君子は民の父母なりと。言うこころは誠なり矣。

   文化第九壬申の歳十月吉日
               高津義克欽んで識す
   三、語釈
     絶頂山の最高所
   三 毳山
下都賀郡三鴨村の西方と、安蘇郡犬伏町大字西浦との間にあり。
高四百六十余門、関東平野の北端に聳立し、古より関東の名山として、万葉集を始め、多くの歌集にその詠をとどめる。嶺峰三つに分れ、頂上には三毳神社鎮座す。

   甘雨  甘はうまいし、転じて喜ばし楽しの義となる。ここはよき雨。
   朔風  朔は北の方角、北風なり。
   雲畔  畔は田のあぜ又は岸のこと、ここは雲中の意。
   乍   たちまちと訓(よ)む。はからずの意
   何戈  何は荷と同じ肩に持つこと 戈は兵器、ここは刀剣弓槍の類。
   絡繹  往来の絶えざること。
   舒疾  舒は緩、疾は速、風の吹くにつれて或は急に或はおそく進行する。
蜃楼  蜃気楼の略。大気中密度不均一のため、光線の堀折作用により、遠方にある 物体が空中にに浮びて見える現象、天気静穏の日、海上 湖上 砂漠 永雪原等に現わる。我国では伊勢湾、越中の海岸 安芸、周防の海中等に現われ、狐森、狐盾、浜遊び、龍王遊び、喜見城、塩山、蓮来島などいい、支那ではその出現の場所により、海市 蜃市 野市 山市など呼んでいる。

   鮮   あざやか、明かなり。
   土人  土地の人(八木沢村の人をいう、とあるが少しおかしいように思う)
   蒲盧  中庸第二十章に、
哀公問政。子曰、文武之政布在方策。其人存則其政挙、其人亡則其政息。人道敏道地道敏樹。夫政也者蒲慮也。故為政在人。取人以身、修身以道、修道以仁。とある。
蒲盧は古来両説があって、後漢鄭玄は、蒲盧は一名螺贏といい、細腰峰のことで、我邦の似我蜂(じがばち)で、此蜂は雄ばかりで子がなく、桑樹に居る青虫を捕え、木の空洞中に置き、七日間に育てあげて自分の子とすると説く、北宋朱子は蒲はガマ盧は葦(盧は蘆と通字)共に湿地に生じ、極めて生茂の速い植物と解している。二者動植物の相違はあるが、孰れも明君が賢人を登用し、徳政を以て人民を治めると速やかに治績の挙がることを譬えたのである。

   蒲瓠  蒲瓠の義未詳、解頤新語に細腰瓠とある。腰細の瓠簟のこと。
   余   碑文の作者高津義克。
   欽   謹むなり。
瓠星  天上星座の五星を五行に配し、歳星(木)熒惑星(火)太白星(金)辰星(水)填星(土)という。

子宿  天上の星座を、東西南北の四宮に分ち、五行十二支に配し、東は木(卯)西は金(酉)南は火(午)北は水(子)とす。その四隅の丑寅は艮、辰己は巽、未申は坤、戌亥は乾なり。子宿は北方水星のおる星宿をいう。

玄武  天上四宿の星宿にかたどって、東方は青龍、南方は朱雀、西方は白虎、北方は玄武の四神がある。宋の朱子の説に、玄武は亀の異名、亀は水に棲息す。水は北方に属し其色は黒、故に玄(黒)亀という。

亀は甲羅を有ち能く外敵を防ぐ故に武という。北方の星宿は其形恰も亀の形をなす。故に玄武というと学海余滴に記してある。

   武从式 武は戈と止との合成文字。从は従の本字。
   蜃从辰 蜃は辰と虫との合成文字。
   雉化之夏為蒲盧
夏后氏は、夏の禹が始め夏の伯爵に封ぜられた国名、后は王、舜王の譲をうけて天子となった。故に夏后氏という。
 その夏后氏の月令、即ち毎月の政令、行事、又は一年十二ケ月の気候風物を記した夏小正(夏后氏が人民に対して毎月物候を記して、四時の行事を指示したもの)に、十月雉入干准為蜃とある。前漢戴徳の伝注に、蜃蒲盧也とある。夏王時代の伝説に、雉が初冬の季節に、大海に入って蜃(大ハマグリ)に化成すといわれ、後世に至り、蜃が海中にいて潮気を吹き、蜃気楼を起すという俗説が生れたのである。

中庸  孔子の孫孔伋の著、天人合一の理を説き、孔子の学は中庸にして偏倚せず。大を極め小を尽すと説いている。

政正名 論語子路篇に、子路曰、衛君待子而為政、子将奚先、子曰 必也正名乎 とあり。われ衛国の政を執らば、必ず第一に君臣、父母の名を正さんといった。蓋し名は実の賓、実は名の主である。その名あればその実がある。名と実と相称(かな)わずして、国事何を以て修むることが出来ようとの意である。此時衛霊公其父を父とせず。名実紊乱した。故に孔子は名を正すを以て先としたのである。為政正名は、論語にある孔子の語で、義克は之を中庸とかいたのは出典を誤った。

   元孔聖必諸此名即名
この句甚た難解で、誤脱の文字があると思われるが、植木孝平氏所蔵の義克自書の碑文草稿も同文である。依て試に解釈を下すと、元はもとより、孔聖は聖人孔子をいう。諸は那須郡誌著者蓮見長氏の説に、礼記曲礼に、射求正諸正。とある諸と同じく前置詞であるというに従うべく、諸は「之於」の合音に成り、彼と此との相違を辨明するものである。故に元より孔聖必ず此名に命ぜらるる(所)なりと訓み、この句下に、蓋有故也あるべきものと思う。果して然らば元来孔子が、政治を蒲盧に喩えたるは、大いに意義のあることだと解すべきである。

   神気  不可思議の星気、神霊の意。
   乾坤泰和 乾坤は天地、ここは天下の意、泰は安、和はやわらぐ、天下太平のこと。
科門斯開 この語は孔子の門に於て、四種の学科たる徳行 言語 政治 文学を指したるもの、斯開は盛に興ること。当時幕府は十一代家斉将軍職にあり。松平定信之を輔佐し、学制を改めて昇平校を建て、柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉などを登用し、学問盛に行われ、朝野に人材輩出した。

玄武斯還 科門斯開と対句をなす。玄武は兵戈の義、還るは退くなり。儀礼郷飲酒礼に、主人答拝還拝辱とあり注に還猶退也とある。戦乱の妖気全く終熄するをいう。

大父母 礼記大学篇に、楽只君子、民之父母、民之所好好之、民之所悪悪之、此之謂民之父母とある。この意は凡そ天命に順い、心の和らぎ楽しむ君子は、政治を行うに、民の好む所を好み民の悪み嫌う所を悪み、能く民心を体察して之を安んぜしめる。之を民の父母というのである。

   王者  帝王をいう。
   則乎  ノットルと訓む、法則にのっとりならう。
   詩   詩経大雅酌章。
   豈弟君子 民の父母、豈は楽しむ。弟は梯にして和易なり。君子は有徳の在上者をいう。
 
四、全文解釈
 自分は、日本国中の名山の絶頂を極め、下野国三鴨山に登り、進んで那須野原を通った。夜来の雨晴れた朝、那須野数里の間白雲が地にたなびき、北風がそよそよと吹き来った。ふと見ると雲間から一隊の武士が現われ、銘々兵器を肩に荷い、北方に向って打続き進行し、風につれて疾く或は遅くなり、鮮明に蜃気楼が見えた。土地の人のいうには、昔からあることで誰が名つけたか分らぬが、蒲盧とも蒲瓠ともいうと言った。
 以上第一段は、那須野に、蜃気楼の現われた光景を述べ、土人の蒲盧と呼ぶことを記す。
謹んで考えるに、天上五星のうち蜃星は一名瓠星ともいい、子の方角即ち北の位置にある。そして兵法では、北方の軍神星は、玄武という。一体武という文字は、戈と止と二字の構成で、武即ち戦争を止めて動かさぬという会意文字である。また蜃字は辰と虫との合成文字であって、辰星は北方の水を司どる星であるから、いま雨あがりの那須野の朝、玄武即ち多数の武士が行列を組んで、北方に進行する現象の起るのはさもあるべきことだ。(これは蜃気楼は、水蒸気と日光との作用によって起るので北方の水星に、北方の軍神星玄武を取合せたのである。)
 また夏后氏の月令を記した夏小正に、十月、雉が准水に入り蜃となるとある。夏王時代は蜃のことを蒲盧といった。この蒲盧が海中にいて潮気を吹き上げて、蜃気楼をおこすという伝説になっている。さればこの土地の人が蜃気楼を蒲盧というのは謂われのないことではない。
 且また孔子は、為政正名といわれた。凡そ政治を行う道は、君臣父子の名目を正すはもとより、すべて人事百般の名を正し、名と実と相副うて、始めて善政が行われる。孔子が蒲盧をもって政道に喩えられたのは、大いに道理のあることで、為政者が仁徳を身に修め、賢人を挙用して政治に従えば、民心を感化する速やかなるは、恰も似我蜂(じがばち)が早く青虫を育てる(蒲や蘆が水辺に茂生し易い)と同じである。思うに玄武星は、兵乱を未然に止める不思議な霊星である。今や世間泰平にして、孔門四科の学盛に興り、人材朝野に満ち、兵乱の妖雲全くやみ、王者上に在り、天道の仁愛に則って民を治めている。詩経大雅洞酌篇に、長大和楽の徳を具えたる君子は、民の父母となって大いに民心の悦服する所となるとあるのは、誠に至上の言葉である。
 以上第二段の謹んで按ずるに以下は、蜃気楼を蒲盧というところから、中庸孔子の語を提起して、当時の代官山口高品の仁政に結びつけたのである。

 
 次に高津義克については次のように記している。
 碑文の作者高津義克は、どういう閲歴の人だか分っていない。碑文に高山の絶頂に遊ぶとあれば、あるいは山野に起状して修行する修験者ではないかと思われる。松崎慊堂の遊東陬録、文政元年五月八日条に、
八日晴、渡伯耆川 自是以東曰那須野 経八木沢村 道傍有碑 近時甲人高津義克者所撰 其略曰 那須野西 雲畔時見兵士何戈北行、絡繹随風状 人称蒲盧云 那須南北十二里 東西五六里 朝陽射西山 雲気騰驤極奇 但不蒲盧為恨

 と記してあり。義克の伝記は、山梨県人物志などに収録のないところを見ると、さほど名声のあった人ではなかったらしい。しかし相当の学識のあったことは、碑文の撰作でも判る。一説に義克は八木沢に私塾を開いて、子弟に読み書きを教え、両三年滞在したといわれ、自筆の習字帖が残っている由である。
 と書いてある。なお飯岡重成の項には、
 この碑を建てた飯岡重武は、通称直蔵、重武は諱である。何許の人か詳にしない。享和三年、代官配下の手代を命ぜられ、八木沢御役所に来任し陣屋の事務に従った。文化十二年四月、日光廟二百回法会には、宇都宮宿御掛を命ぜられ、高品の指揮の下に人馬継立役となり、公私の間に奔走して功労が多かった。是より先、重武は高津義克が高品に献呈した蒲盧の撰文を乞うて石に刻し、
  はてしなく 浮世の人にみするかな那須の野面の ほろのいしぶみ
自詠の和歌を裏面に彫り、之を湯殿山神社境内に建立した。
 重武の没年や享歳など不明である。妻室は重武赴任の四年後の、文化三年十二月十六日死歿した。墓は瑠璃光山薬王寺の墓地内にあり(写真5)、兜巾形高二尺五寸(約八十センチメートル)、巾一尺三分(約三十センチメートル)、横一尺(約三十センチメートル)、蓮華台石二重、表面上部に家紋蔓葉と阿字、中央に
  嶺照院素雪大姉
と刻し、右側面文化丙寅年十二月十六日、左側面飯岡直蔵妻とある。哀れ弔う人もまれである。

写真5
親園薬王寺墓地にある飯岡直蔵の妻の墓

  《参考文献》
蒲ろ碑考 人見伝蔵                     大田原温故会
大田原を中心とした北陸農民の移住についての考察       藤田倉雄
創垂可継 黒羽町教育委員会                 柏書房
天領  村上直                       人物往来社
江戸幕府の権力構造 北島正之                岩波書店
東北関東の諸藩 北島・児玉編                人物往来社