第一章 戊辰戦争をめぐる諸藩の状勢

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 坂本龍馬など土佐藩士が藩主山内容堂を動かして、朝廷と幕府との間を平和のうちに政権交代を行わしめ、一日も早く国内統一を策したが、薩長藩中幕府は徹底的に壊滅すべしとする強行派が勢力を持ち、坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺、慶応三年(一八六七)十二月九日王政復古令が発布となり、幕府討伐が進められることとなった。
 しかしこの事はかえって幕府方の反抗を招き、遂に戊辰戦乱をみるにいたった。
 当時関西方面の諸大名は大体薩長を中心としたいわゆる朝廷方に味方したが関東以北では天領、旗本領は勿論諸大名の多くは幕府方に味方した。そして最も強く反薩長の立場をとったのが伊勢の桑名藩と会津藩でことに会津藩主松平容保は強硬に反薩長の立場をとっていた。容保はそれまで京都守護職の要職にあり、かつ孝明天皇の親任も深かった。
 慶応三年(一八六七)四月十四日孝明天皇、にわかに崩御、薩長方は当時十六才の明治天皇を擁し、討幕の方針がどしどし進められて行った。
  松平容保が孝明天皇に親任せられておった資料として次のものがある。
(北金丸 新江元吉氏蔵)

    慶応三丁卯四月十四日
    先帝崩御 天下柄諒闇 関白二条斉敬卿被召呼 左之御書付添 先帝御遺品を御授与相成候事
                    会津中将
    一、太刀       薩州住平正良作 壱振
    一、黄銅花生
    一、絵巻物              壱巻
    一、小屏風              壱双
 右を記した巻物を収めた箱には静観〓(ママ)と記してある。静観〓(ママ)(宮~居か)は孝明天皇の御妹和宮で徳川十四代将軍家茂夫人、家茂歿後上野寛永寺におられた。天皇崩御後その遺品として松平容保に贈ったものであろう。
 右の品々の内太刀のみ現新江元吉氏が所蔵している。
 この様な状勢下大田原地域の各領主達はどのような立場をとったであろうか。
 大田原藩は次席家老大田原一学、藩士権田峰蔵、領内寺方村神主岩瀬響(一学の足軽の名目で)を京都に遣わし、鳥羽、伏見戦(時)下の状況その他を詳(つぶ)さに視察、帰藩後幕府の命脈いくばくもなく今や朝廷方(西軍方)に付くべき時であると報告、そのため大田原藩はいち早く朝廷方に立つに至った。
 黒羽藩では藩主大関増裕が幕府の要職(若年寄)にあり常に天下の形勢観望を怠らず、これまた大田原藩同様朝廷方(西軍方)に付くことを決し慶応三年(一八六七)十月近習三田深造、祐筆佐藤均を密かに京都に差遺某公卿を通じて朝廷方加担を連絡している。   (那須郡誌)
 その後大関増裕は慶応三年(一八六七)十二月九日市内那須神社(金丸八幡宮)裏の叢林中で不慮の死を遂げて終ったが藩の方針には変りはなかった。
 佐久山福原氏も前二者と同様の立場をとった。
 ただ天領及び幕府直属の旗本とその領民達とは大田原、大関、福原氏等とは異なり、幕府直属の領民達は外様大名や外様的旗本領民より優越意識を持ち一面外様領民に比し優遇されておったため、幕府に対しては前者よりも好意的であった。しかし、時勢は大変革期、ここで方針を誤ると一大事にもなりかねない。
 そこであらゆる手段をとって時勢の動きを探り、何れに属するかを定めねばならなかった。
 親園地区、金田地区に領地を持っていた旗本久世氏領民達は黒羽藩より京都やその他の地域、又は天下全般の状報を得ていた。   (郡司家文書)
 旗本久世氏は三河以来徳川氏直属の家臣で寛政四年(一七九二)には関東郡代、寛政六年(一七九四)には勘定奉行、寛政九年(一七九七)には西丸御小姓組番頭、同十一年(一七九九)には中奥御小姓、天保六年(一八三五)には長崎奉行、天保十年(一八三九)には田安家家老などを勤め、幕末の領主は久世下野守、江戸城内勤(役職不明)をしていた。
 市内では青木、若目田(滝岡)三色手、上宇田川、倉骨、奥沢、桜井(小滝)の各村、さらに湯津上村中の片府田、新宿、蛭田、蛭畑、佐良土の各村、黒羽町、上下山田、亀山、矢倉、滝、小川町小川、浄法寺などの各村がその知行所、表高は三千石の旗本であったが実高は更に多かった。
 そしてこの近郷支配の役所を佐良土陣屋におき、領内取締、貢租取立などを行なっていた。
 郡司家は代々倉骨村(大田原市倉骨)の総名主(倉骨村は元四つの小村より成立ちその四つが合わさって倉骨村という総村成立)を勤め、幕末には上山田村斉藤氏とともに前記陣屋において割元役(領内取立の仕事従事)を勤めていた。
 この郡司家文書の中に次のものがある。
    慶応四歳
    京都御触書
    戊辰三月
               大関より達
   この文書の表紙裏には
   水戸分家
   松平讃岐守頼如、弐拾三万石讃岐香川郡高松久松氏
   松平隠岐守定穀拾五万石伊予温泉郡松山長沢
   松平備前守正和二万石上総夷隅郡大田喜
   松平肥後守容敬二拾三万石奥州会津郡会津
と記されてあり、薩長方において、特に幕府方の中心勢力をなす大名の方を記したものであろう。
 本文は徳川慶喜の大逆無道と討伐軍派遣その他のことを記している。   (後詳記)
 この文書は久世氏領民達が常に大関氏と連絡を持ち情報を得ていたことを物語るものであり、天領や他の旗本領民達も何らかの方法により代官や領主達に秘し密かに情報を得ていたものであろう。
 慶応二~三年(一八六六~一八六七)期の大田原近辺の状勢。
 しかし慶応三年(一八六七)期までは未だこの近郷への西軍方(朝延方)の公然の触は廻布されてはいない。
    毛利奥丸
一時子年家来之者京師江乱入禁闕被発炮候条於大膳父子其罪難遁厳重ニ可被 仰付処恐懼謝罪三家老之首級備実検其後弥恭順謹慎之趣ニ付
天幕
御主意を以格別寛大之御裁許五月朔日申渡廿日限り御請書可差出筈之処廿九日迄猶予之儀吉川監物より願出候ニ付承届候処〓国土民疑惑憂慎切迫情状鎮撫難届ヲ以此上猶寛大之御沙汰被 仰出候様三未家監物より又候書面差出右期間限ニ至り御受書不差出候是迄も至難之国情ヲ御斟恩威両道を以国家之大典正候処終に御衛不致候条天幕之命ヲ尊奉不致御裁許違背不届至極被問罪之師被差向候間此肯可相心得候尤硬(抗)命之ものを御誅鋤被成候主意ニ付無罪之細民未々之ものは〓ニ動揺致間敷候
右之通松平安芸守を以毛利奥丸并ニ未家吉川監物江相達候ニ付御供万石以上以下之面々江可被達候
 慶応二寅年四月中
 一、御召捕相成候          長州家老 宍戸備後介
                        上下四十四人
 一、御召捕相成候          兼原索太郎
                        上下拾壱人
 一、御召捕相成候          騎兵頭取分 赤川亦太郎
                        上下七人
 一、御召捕相成候          長府藩 山形政太郎
                        上下七人
 一、御召捕相成候          徳山藩 福間三左衛門
                        上下六人
 一、御召捕相成候          岩国藩 池清記
                        上下拾二人
 一、御召捕相成候          長府藩 毛利伊織
                        上下五十七人
 一、御召捕相成候          清未名代 平野郷右衛門
                        上下弐拾五人
 一、御召捕相成候          長府藩 杉村毫輔
                        上下四人
 一、御召捕相成候          岩国藩 戸川新
                        上下三人
 一、御召捕相成候          徳山家老 福間式部
                   同用人 飯田一郎右衛門
                        上下六十三人
 一、御召捕相成候          岩国家老 金田〓屓
 一、御召捕相成候          用人 目加田喜之助
                        上下四十弐人
  惣人数上下共 弐百九拾三人
右者四月廿日より廿三日迄不残広嶋表江着西寺町ニ旅宿五月朔日於国恭寺小笠原壱岐守殿御申渡ニ相成其後五月九日俄に宍戸備後介、赤川亦太郎両人共西寺町ニ罷有処昼八ツ時半頃別手組騎兵隊小筒組押行厳重ニ相囲別手組ニ而召捕申候 且近々長州悪人騎兵隊廿人ヲ呼出し御吟味有之名代之者長州迄一同引取申候
 五月廿日
此書付広嶋表より騎兵ヲ早注進廿三日着
(郡司家文書)


 これは元治元年(一八六四)八月幕府の長州征伐、十一月長州藩謝罪時の様子を知らせたもの、その後長州藩の強硬派が再び反藩与兵、幕府は又長州征討軍を繰り出したが慶応二年(一八六六)八月将軍家茂の死去により中止するに至った状況については次のように報せられている。
二月十一日
徳川玄同殿
御進発 御後備 御免
御留守中之儀御委仰被成候旨於大坂表被
仰出上者御出府之儀ニ此段為心得向々江可被達事
一、六月十九日戦争御地頭様(久世氏)御勝利被遊候事御達し
八月十日御屋舗様(久世氏)より御用状之内長州表より御状写左之通
五月十九日附御用状六月十八日高田泰助広嶋表江持参夫より芸州領小瀬河手前大野村江御出陣所江相届拝見仕候 先以双地上様益御機嫌見被遊御座御同様奉恐悦候 貴所様方愈御壮勤御勤役奉恐賀候 御供之面々一同無異相勤申候
一、広嶋表より申上置候通七日正清院ヲ御出発宮嶋江御着鑑同十六日迄御止宿同夜四ツ時俄ニ芸州領より大野村江御着達被〓候
一、同十七日俄ニ御用向ニ而広嶋江被
御前被為入十八日昼九ツ時御帰り被成候
翌十九日暁七ツ時過より激徒五六百人も俄ニ当村江襲大戦争昼九ツ時前敵不残敗走尤本道江は敵数不相成余程之大人数ニ而伏兵同様竊ニ寄来り候ニ付若戦何れも敵方よりは三方山間より包打致し候心得ニ而襲来候処夜中故ニ敵味方不相分若戦御座候併
御厚運故御勝利激死人手負不数知凡百余人も可有之由
 尤生捕三人、分採大炮三挺 弾薬箱三ツ 首級三人
此外有之候得共幸便申上候 榊原様印之幕ニ張賊持越候処是も分採
一、延塚孫太郎股被打抜申候 尤大小之〓を割夫より半玉股江打被込併疵ケ所/\よわいて直様伊東玄民老療治被為致追々扶少々ツツ歩行も叶申候 外上下少々も疵請不申候間御安意可被成候
一、十九日より日々両三度ツツ場所江出張戦可有之候之処激徒逃去候之間先今日迄別ニ戦無之候。併昼夜とも安寝無之是ニは少々労れ申候
一、三番町方深浅手負九人也 此内友成郷在衛門様御子息様御頭取求馬様御儀は一玉ニ而事切相成候尤発(抜)群之御働ニ御座候鑒吉様御組隊候得共鑑吉様は少々も御替り不被為入候間左様被 仰上可被下候
一、井伊家 榊原様十三日ニ激徒ニ襲れ誠ニ以大敗走言語同断之仕合夫故十九日同様ニ襲来候処案に相違し大敗軍ニ而誠ニ以恐悦筆紙難尽御同様奉存候一右之通御座候
種々申上度儀有之候得共テントウノ内両三日雨天打続実以難○○筆之処猶更許言御判読可被下候何れ重便可申上草々
 六月廿三日
 河内守殿
     大目付江            神保佐渡守
                       さし越
花山院前右府薨去ニ付今日より三日鳴物停止候 尤遠方之向者承り候日より可為書面之通
 但鳴物停止中ニハ候得共右之通可被心得候
右之通可被相触候
 八月
周防守殿                 御渡候御書付写
    大目附
御尊骸御軍艦ニ而江戸表江被為入増上寺江御葬送可遊旨去ル廿一日於大坂表被仰出候間其段向々江可達候
 八月(慶応二年)
公方様
薨御ニ付今日鳴物普請停止候
右之通可被相触候

(郡司家文書)

これは徳川十四代将軍家茂の死去を報じたもので、これを契期として思しくなかった長州征伐は中止となった。
 河内守殿中渡  八月廿六日
兼而被 仰出候通一橋中納言様御相続被遊去ル廿日より
上様と奉称候弥精勤を可申段於大坂表被仰出候 此段今日出仕無之面々江可被達候

(郡司家文書)

 これは徳川慶喜が十五代将軍になったことを報じたものである。
 次にこの年の物価、第二回目長州征伐の様子を次のように報じている。
 八月
 当年諸品高値之次第左之通
慶応二丙寅年違作秋値段之
一米  金壱両 壱斗弐升 値
一煙草 金壱両 弐貫五百目 値
一糸綿 百文  五包
一雑石右に准し高値 衣類高値 都而下値のものなし
 
七月晦日御差立御用状八月廿四日芸州巳犯間村 御本陣江着拝見仕候如命冷気相増候処双地
上々様益御機嫌能被遊御座御同意奉恐悦候貴所様方愈御清福被成御勤励奉恐賀候 御供之面々一統無事罷有候 乍憚御休意可被成下候
一、御直書并御届之品々共不残慥ニ落手仕候夫々向江配達仕候
一、御本家様之儀申上被置候御沙汰奉恐悔候
一、七月廿八日五日市御出立大野村江又々御出陣被成申候 索より官陣一度引上候ニ付右大野村江激賊共多人数張陣いたし居候
夕七ツ時比より途中宮内村より攻激翌暁廿九日迄止間なく大戦有之候 大勝利同晦日無滞大野村江御陣張被成候
一、与板藩大憤発今日至大ニ評判宜敷御座候宮内村権現山ニ而七ツ時より夜六ツ時迄戦争
一、八月二日朝五ツ時より官陣勢添実以広然は五ツ所江襲攻激方ニ而は兼而申上置候
大野村と玖波との山間とふのふと唱候高山ニ而見張居遂一注進いたし候様子ニ御座候誠ニ以謀落もなく公然之御軍法候
一、右之節も与板藩大ニ働鎗入戦申候三番町下役永挙仁之丞殿討死其外少々手負賊方手手負死人不数知死人片付方も不出来皆途中谷間杯江隠し置其外胴斗埋手足共丸出し沢山有之
一、八月七日暁六ツ時より賊方より宍戸備後介、小田村索太郎大将として襲来昼八ツ時迄攻激味方手負死人共七人斗召死弐人下役永久保徳太郎討死いたし候 賊方正ニ弐百六十三人討死、手負えもの不数知、大炮弐挺、小炮五挺分採いつれも大御勝利尤当日大嵐ニ而一統一寸困り申候御厚運故是迄五度之戦ニ一寸も敗ヲ採候事無之実以大悦不斜奉恐候
一、同日榊原敗走死人五拾何人手負も沢山賊方ニ而分採物ニ三度も運ひ申候 尤も当藩者宮内ニ出陣残念千万ニ存候
一、宮内へ賊三千も押出し途中道路裁切候ニ付さすれハ大野村ニ安陣難被成候間夫より早々陣替いたし候様御下知ニ依而宮内攻激之処紀州様御人数官陣押而参り候事承り込候而賊方不残逃去り申候 無戦御陣替相成申候此後は一度も戦無御座候
一、近々広嶋江御引揚可被成御模様ニ御座候
一、薨御之御沙汰被仰出有之候との御儀奉存候当月廿三日ニ御仰出し
右之外相替儀無御座候御報旁々以如是御座候
 八月廿六日発          吉見要左衛門
     篠崎九十九殿
     小原環殿
     森範左衛門殿
一、大野村戦争味方惣而手負人死人迄西下三善町共百人斗 賊方全五百六拾人余人召死手負数不知

(郡司家文書)

 以上がこの地に報ぜられた第二次長州征伐より将軍家茂死去に至るまでの経過である。
 更にその後征長中止に至るまでの経過については次のように報じている。
別紙之通紀伊殿江
御所被 仰出候間為心得御供之面々并ニ在坂軍目附江可被達候 長防切迫之諸藩江も尚精々尽力心得有之候様可被達候
                     紀伊中納言
為前軍惣督出張候処度々及奮戦諸藩指揮茂行届候由被聞食
御満足之事ニ候殊ニ長滞陣之段大儀思食候此上尚厚可有尽力旨御沙汰之事
 別紙之通
御所より被 仰出候間取斗方ニも芸州表松平安芸守江相達候 此段為心得御供之面々并ニ在坂之軍目付江可被達候
大樹薨去上下哀情之程茂御察被遊候ニ付晢時兵事見合候様可被致旨御沙汰就而は是迄長防ニ於而隣境侵掠之他早々引払鎮定罷在候様可被取斗事。
 寅(慶応二年)九月

(郡司家文書)

 このように第二次征長は思うに委せず、家茂死去を契機として兵を収めるに致った。
 この事は最早一長州藩さへ討ち果す力を失った幕府の無力振りを暴露し徳川政権滅亡へ拍車をかける結果となった。
 しかしこの辺へは当時前記文書に依り判るように第二次征長の兵を収めるとのみであったため、依然として前々よりの幕藩体制下におかれていたことは次の文書によって察せられる。
 覚
三千石以上ニ而遠国御用相勤致帰封候もの之兵卒は帰村之日より十日相休差出候様可被執斗候
右之趣組合之者江其方共より可被相違候事
 寅(慶応二年)九月十六日
 送状之事
 一当寅
 御年貢何百俵 但し何斗入
              掛目何貫目
右之通何村誰上乗ニ而野州那須郡阿久河岸より船積鬼怒川通いたし久保田川岸宮高田屋権兵衛方江相下ケ夫より江戸表本所林町二町目上総屋甚兵衛方江相送り申候 着船之節御改御請取可被下候 仍而送り状如此御座候以上
                     久世下野守知行所 下野国那須郡 佐良土村 陣屋
                                        郡司太郎衛門
     江戸牛込橋場 久世下野守様御屋敷
              御勝手御役人中様

(郡司家文書)

 これはそのまま正式の送り状ではないが、この様な様式の送り状を添えこの地産米を江戸へ送っておったことを物語る文書で、慶応二年(一八六六)十月又は十一月に書かれた文書であることは前記九月十六日文書と次の十一月二十四日文書の間に書かれていることより明らかである。次には次のことが記されている。
以廻章得御意候今搬
白川御殿江戸 御役所より上野、下野神祇道御調之趣ニ而北村内記様と申御方今廿四日当宿江出役之上稲荷始メ諸神御立願人并ニ何方之祈祷ニも無之神職且又無傅之家、大工、船大工、草屋称(根)〓(ふきか)杣取、木挽職之もの村役人差添印形持参ニ而早々当宿御用宿江御出候様
関東御取締百瀬章兵衛様より可被扱様被 仰聞候趣千住宿より添書を以申越村々取調早々御出張可被成候猶右職業世々之村方も村役人印形持参可被成候 廻状刻付ヲ以御願立留村より御通脚可被成候以上
                         印南丈七
  十一月廿四日   井上次左衛門

(郡司家文書)

これは佐久山宿町年寄印南丈七と問屋井上次左衛門より久世領佐良土陣屋に届けられた文書写しである。
仏教徒外の各種宗教関係者および渡世人の取調べで幕府方ではいまだ前代同様の取締りをしていた様子が判る。
 申達
今般村々夫食潤沢之御趣意を相弁御知行入会武蔵、相模村々秣場、芝地、小物成場所等之内開発作方相願候ニ付右場所より野銭、草銭其外小物成米、永等御料、私領共相納来候分者是迄通居置村々願出候趣を以最寄御代官ニ而取扱開発方申渡候間基旨可被心得候 尤右場所ニ本田畑等之境筋調方基外作方之模様見届として掛のもの并ニ御代官手附手代等廻村為致候間其段兼て村方江申渡都而差支無之様可被取計候以上
 右松平周防守殿江申上小栗下総守申達之
  卯(慶応三年)正月

(郡司家文書)

 これは秣場、芝地など本税外の雑税(小物成)納付地の開墾願出についての注意書で、この時期においてはいまだこの様な幕府達書が回付されていた。
 朝廷では前年十二月孝明天皇崩御、この年一月には明治天皇即位、これを擁立した薩長中心の討幕勢力は着々と新政府樹立を進めつつあった時期である。
 更に徳川氏出身地三河国岡崎の六所大明神修理のための寄附募集人(勧化)の許可書を幕府より発し、三河の外関東以北の村々へ布達している。
    三州岡崎
           六所大明神 神主 大竹将監
   三河、武蔵、下総、常陸、下野、陸奥、出羽
   右本社其外大破ニ付修覆助成として右七ケ国勧化、御免被 仰出候事
    卯(慶応三年)正月
   右者 須行可致事
    二月朔日
     壱岐守殿御渡
    渡         大目附江
(郡司家文書)

 征長軍解体の達し状は慶応三年(一八六七)二月に出されている。
   御所被 仰出之趣も有之ニ付長防討手晢時兵事見合相成候処此度
   御国喪ニ付一同解兵可致旨被 仰出候
   右之通去月廿三日於京地被 仰出候 此段向々江可被達候事
    二月
(郡司家文書)

 この御国喪とは孝明天皇崩御と家茂薨去とを兼ねたことを指してのことであろう。
 この様にこの近郷はいまだ幕府支配下にあったが関西殊に京都を中心とした討幕勢力の増大に伴う幕府勢力失墜と不安の情報がここへも追々伝わり、村方においてもそれぞれ自衛策が講ぜられて行った。
 農民達も従来と異なった態度で、積極的に領主達に対し各種の要求を行う様になり又打こわしなど行われ不隠の状勢となりつつあった。尤もその一面には不作や社会不安に伴う各種物価の値上り、生活難の問題もその原因となっていたことも見逃せない。
 乍恐以書付奉申上候
一、当春以来米穀格外之高値相成候ニ付而は当夏麦作取入候迄之間窮民夫食手当方取斗之義御尋す御座候処私共村方之義者極窮之取調候処老幼男女何人御座候処銘々手作余穀を以取続其上夫食不足仕候分は村内貯置候雑穀ヲ以割渡し村内余分之者より融通いたし村役人共ニ而買入穀割合麦作取入候迄之間手当仕為相渡候義ニ御座候 此段奉申上候
                        久世下野守知行所
                        野州那須郡佐山宿組合
                          倉骨村
  卯二月日                     百姓代 長右衛門
                           組頭  駒之助
                           名主  勇之進
  米穀相場附覚
一、白米両ニ九升四合           一鍬 壱丁金弐分弐朱位
一、稗米同 九升七合
一、麦米同 壱斗弐升           一鎌 壱丁八百より壱貫文位
一、醤油壱升 三百文           一豆腐壱ツ拾文より
一、塩 壱俵 金壱両
一、大豆両ニ弐斗             一米糯金弐分弐朱
一、小麦両ニ弐斗             一鷄卵壱ツ弐拾四文ツツ
一、小豆壱升 五百文
一、油 壱升 金壱分           一道中旅籠銭上壱貫弐百文
一、煙草両弐貫二百目位          中九百文
一、打綿百文ニ 五包
一、手拭壱本 三百文余
一、わら壱束三拾弐文より八拾文位迄
 関東御取締御廻状
当今米穀払騰いたし野州筋宿村之内窮民共取続兼切迫心得違いたし徒党企有徳之ものより米金押而施救為致べき旨取次ニ及異義候て居宅等打毀等密々申合候族も有之趣相聞徒党相企候頭取先重キ仕置被仰付右ニ誓候もの共も夫々厳重ニ御仕置可相成候 畢竟窮民之心得違より事起り不便(憐、愍、憫)の至りニ候条村々役人共より小前末々迄不洩様能々可申諭候
右之通り組合村々ニ而急速相達し大小惣代寄場役人共深(親)切ニ世話いたし徒党騒立等発起不致様精々可被取斗候 尤村々役人之内等閑ニ心得小前江諭方不行届場所も有之候て早々可被申聞候 右者自分共近々廻村之上取締向可申渡候へとも先不取敢此段及達候 此廻状寄場下令請印刻付ヲ以須取留より吉田僖平治方江可被相送候以上
                      関東御取締出役
卯二月廿三日                      望月善一郎
                               大田源太郎
                               渡辺慎次郎
                               中川孫市
                               吉田僖平治
                         野州筋宿村寄場役人
                               大小惣代人

 また次のような時勢を諷刺した落首が方々に張り出された。
○下はなく 上はそでない 陣羽織り
○天下の老中 横しまを下され 諸役人にはかすりを下され 百姓町人へは しぼりはなしを下され

(郡司家文書)

 要は当時の支配者達の横暴、腐敗、惰落振りを辛竦に諷刺したもので、当時の時代相を遣憾なく語っている。
 次に当時無頼漢共が所々方々を横行し百姓、町民達はそれぞれ自衛策を講じつつあったことは次の文書によって窺える。
近来在方ニ浪人者杯留置百姓共武芸ヲ学ヒ又者百姓相集り稽古致候由相聞農業妨候計ニも無之身分ヲ忘己気加さ可来行候基ニ候間堅相止可申候勿論故なくして武芸師範致候者杯猥ニ村方江差留置申間敷候
一百姓共之内江戸町方火消人足之身体ヲ似出火ニ事寄大勢ニテ遣眼式者(いかがわしきもの)頭分と唱組合ヲ立喧𠵅、口論ヲ好候者共も有之由相聞甚タ以下埓之事ニ候
急度相慎惣而風義宣可致候
右之通天保十亥年相触置候処未心得違之者多く有之趣向後天保度触置堅相守百姓共猥ニ武芸致候者共修行者等留置候儀致間敷候依而ハ剣術稽古等為致候面々も候ハハ場所に応し在方掛御勘定奉行並江問合候様可被致候
右之通関八州御料私領寺社領共不洩様可相触候 尤も於御府内百姓町人共を猥ニ弟子ニ致間敷候

 この様な浪人取締りのため指名手配をしたものに次のようなものがある。
  覚 卯四月廿日着
  人相書
    新徴組  上村藤平 歳廿八九
一面体     色白く庖瘡之跡有之
一頬骨     高キ方      一鼻    高キ方
一口      大キ方      一眉毛   濃キ方
一脊      高キ方      一耳    党体小キ方
一髪      多キ方月代惣髪相見へ
一言舌     静成方
一逃去候節之衣類 黒木綿紋付布子 紋三つ巴 紺小倉帯 茶絣竪縞襠 高袴着用いたし
右之もの義御預ケ中去ル七日番士之透ヲ見込逃去り行衛不相分早々可召捕旨其筋御沙汰ニ付深索差押置急束注進可被申越此廻状寄場下江令請印領立留より可被相届候以上
                    関東取締出役
 卯三月廿八日                  望月善一郎
                         大田源太郎
                         渡辺慎次郎
                         中川孫市
                    氏家宿初
                         廿七ケ村宿村
                         大小惣代中

(郡司家文書)

 幕府の手先となって討幕者達をねらった新徴組、後新選組となった連中の中には浮浪の徒も多く、おのれの意に満たねばあらゆる暴力に訴えて良民達をゆすり歩いた不法者共もいたのである。ここにあげられた上村藤平も恐らくその一人であろう。世相混沌とした幕末期、彼はこれを奇貨として、各地を渡り歩き剣術指南と称して良民達の間にとり入り、一方農民や町人達も一つの自衛手段として彼らをかくまい保護していたもので、平和時には見られぬ険悪な世相を物語っている。慶応三年(一八六七)期におけるこの地はこの様な有様であり、殊に領主不在の旗本領の如きは一層この感が深い。
 長い間圧制に苦しんだ農民達も何かを契機として一揆を起す状態におかれていた。しかし大田原地域内で未だ慶応期には農民暴動は起っていない。けれども明治二年(一八六九)は彼らが期待した明治政府による世直しも期待に反し彼らの苦しむ結果と知るや遂に近郷二十九ケ村の天領旗本領農民の騒動となるに至っている。(農民の不満と騒動に記)
 更にまた一般は前代よりの絶対的幕府支配体制下にあり、それより僅か一年以内に起る薩長中心勢力の波及なぞ夢想もしていなかったことを思わしる次の史料がある。
 乍恐以書付奉願上候
御知行所那須郡佐良土村役人小前一同奉願上候ハ字鷹巣下より開発致度趣ニ而用水路中川より堀割致候段柚上村(湯津上村)役人より談示合有之候得共申聞候者字弐升田ニ而御林分面并ニ田畑川欠地所生地分面洪水之節一同申合坂本久兵衛様御知行所名主惣助江右地所売買致新開発相初私共両給分面江追々切込候ニ付数度及懸合ニ候所不得止事乱入開発被致其上三月十日山内源七郎様御手代吉良八郎様右地所御見分被遊袖上村役人私共江御無沙汰ニ而右地所江境抗相立候ニ付夫而己難捨置幸御出役有之候故右始末申立候処御書翰ニ而 山内源七郎様御手代吉良八郎様江御引合被成下候処御当人様より御返翰而己ニ而柚上村御出立被遊候ニ付猶又相手村役人江再応掛合出訴奉歎願候者宝暦十一己三月中柚上村役人より相手被取 小幡山城守様御月番之節済口証文ニも相振レ旦又安永八亥十月中川崎平右衛門様御手代大田文五郎様御出役被遊私共用水路水刎御普請被仰付候砌河原之義者何れも境決着不仕候ニ付双方立会印証奉差上古証文ニ相振し旦亦開発相初メ用水路中川より堀割候ニ付洪水之度々来水之愁眼前之儀と深心配仕猶又前文川欠之地所相手村役人共如何様之心得ニ而開発致候哉難捨置候ニ付柚上村役人共相手取御時柄恐多くも出府奉願上候間御憐愍を以前文之廉々送々御一覧被成下其御筋江御差出し被下置候様奉願上候何卒格別之御慈悲ヲ以歎願之通御差出被下置候ハハ村役人小前一同難有仕合奉存候以上
                     那須郡佐良土村
                        組頭百姓代兼
                          佐野右衛門
 慶応三卯四月                 組頭 栄蔵、源五郎
                        名主見習 治郎左衛門
                        名主 新吾
     御地頭所様
        御役所

(郡司家文書)

 これは旗本久世氏領佐良土村農民と大田原氏、旗本伊沢氏、同花房氏、同坂本氏の四領主によって分割統治されていた湯津上村の内の坂本領農民とが水利権および新開発地所有権とをめぐっての争論文書である。当時は村と村との間の土地には所有権が何れの村に属するか明らかでない場所が数多くあり、そこが経済的価値を持つようになると初めて所有権争いが起ってくる。即ちそこが芝地のような比較的経済価値の低くかつ両者共他に採草地に不自由しない間は大した争論は起らないが、そこが開発され農耕地として利用されるようになると、ここに所有権争いが起ってくる。
 ここの場合もそれで更に価値の高い水田となると水利権をも含めた深刻な争いとなり、訴訟沙汰となったものである。
 ここの場合は宝暦十年(一七六〇)以来の争いの場所でこれが裁断を幕府に仰ぎ代官の手代出張裁判となっている。
 山内源七郎は下野国内の天領総代官で真岡陣屋におり、天領の問題更に旗本領内の総べての問題処理にあたっていた。
 この山内源七郎も翌慶応四年(一八六八)五月十七日上州兵および肥前兵の手で打首となっているが、この期にはいまだその様なことは予想もできぬ幕府直属の権力者としてこの地に君臨しており、一般人もこれを怖れておったもので、当時はまだまだ幕府体制支配下にあったことが知れよう。
 ただこの争論に対しては判然と黒白の裁決をせずに手代吉良八郎が引上げたことは従来の態度と異ったことが判る。即ち従来ならばよく事情を調査の上黒白をつけていたものだが、この期には何れを是、何れを否として直臣間に隙をつくることは江戸幕府にとっては不利と考えての処置ではなかったか。若し左様とすれば幕府為政者達は幕府の危機を十分予測していたものと思われる。
 一面この文書中「時節柄」と記していることは農民達も決して時代の動きに全く無知でなかったことを思わしむるも、京都においては明治天皇を奉戴して、新体制をどしどし押し進めておったことについてはそれ程に重大視せず、依然として旧幕体制の永続を信じていたものであろう。
 しかしながら幕府自体は最早旧体制維持の困難さを十分承知し除々に旧い制を解きつつあったことは次の文書に依って知られる。
 御取締様より御沙汰之趣左之通
先般御鷹御廃止相成候ニ付飼鳥請負人本小田原町壱町目伊之助外壱人請負御差免相成以来会所と相唱候義不相成旨 其筋より申渡有之候ニ付飼差共村々江罷越人足差出方又者止宿等申入候共前条之趣を以急度相断若及不法難捨置儀も有之候ハハ差押最寄当御出役廻村先江可訴出候
右之趣早々組合村々江及通達大小惣代寄場役人共より精々可心付候 此触書寄場下令請印刻付ヲ以領立留分より吉田静助方江可被相返候以上
 慶応三丁
    卯五月十三日

(郡司家文書)

 御鷹とは飼いならした鷹によって他の鳥や兎などを獲らしむる鷹狩のことで日本では古代からこれが行われていた。これが普及に伴い各地に鷹場が設けられた。江戸時代になるとなお武の気を養う一つの行事として一層盛んとなった。
 将軍の鷹狩を行う場所を御留野、御奉場などといい、大名の場合は御鷹野、御止場など各藩により種々の名称があった。
 又鷹狩用の鷹を捕えるためにはその繁殖を図ってそのために仕立てた森林があり、そこを鳥屋(とや)林、塒(とき)場などといいそこの樹木伐材を禁止または制限をしていた。
 江戸幕府はこれを年中行事の一つとし、年始めには将軍自ら放鷹を試みていた。
 各藩ではよく飼いならした上等の鷹を将軍家に献上、そのためにはそれを送る道筋は厳重なる警戒をし、宿々の気苦労は大へんなものであった。殊に鷹の主産地である奥羽より江戸に送る道筋の大田原宿の苦労は大へんなものであった。
 江戸に送られた鷹は御鷹所に納められ係役人によって管理され飼鳥請負人(鷹匠)が郊外に出で鷹の訓練に努めた。しかし幕府はこれを単なる行事としておったのではなく、諸大名達の動静を探るための手段として利用していたとも考えられる。
 徳川氏は天下の実権を握るやあらゆる手段、方法を講じて幕府政権の永続を図った。そのためには諸大名達殊に外様大名達の動静については常に監視を怠らず、その一手段としてこの鷹狩行事を利用したもののようである。そのため鷹狩人請負人なるものをつくり、この者達には何れの領地にも自由に立入ることや必要人夫徴発、何人の家にも自由に止宿し得る特権を与え、また領主達にもこれを応ぜねばならぬ義務を負わしめた。こうして彼らは自由に何人の領内にも立入り、その藩の動静を探ったものである。
 江戸幕府はこの外にもこの様な役割を努めさせたもの達をつくっていた。この中には万歳や普化僧(虚無僧)がある。
 万歳は正月家々を訪れて祝言を述べる門付の一種で古く室町期には千秋万歳があり、別名唱門師ともいい賤民階層の人々によって行われた。
 その出身地には大和、三河、福井県真野村などがあり、大夫と才蔵の二人組で面白おかしく歌を歌い、舞を舞って全国の村々を回った。
 このうち江戸幕府が利用したのは家康の出身地である三河万歳で鷹匠達が各領分に自由立入やその他の特権を持っていたのに比し、別に特権は附与されていないが、村々の家々を回ってはそれとなし各藩内の動静を探ったものといわれる。
 次の虚無僧達は全国各地の要所要所に寺(普化寺~普慶寺)を建立し、そこを根拠として諸大名達の動静を探っていた。この虚無僧達は徳川氏腹心の武士の中五百石程度の者がこれになったといわれる。彼らは出歩く際は面をかくし、尺八を吹奏して仲間同志の合図をしていた。
 明治政府が成立すると神仏分離、信仰の自由が許されたが、檀家を持たずただ幕府の手先となって活動したこと宗旨(普化宗)は他の宗旨とは区別され明治十八年(一八八五)遂に廃滅されて終った。
 大田原市内にもこれがあった。今の城山二丁目、元消防署のあった場所より少し南の所で明治(年代不詳)以後は龍泉寺の末寺となった普慶寺である。
 この様な幕府の牒者的役割を果していた鷹請負人もこの期には廃止となっている。これはこの様な手段は最早無意味の存在となったことと、返って他に悪用される怖れのあることを知ったからで、ここにも幕府政権の後退の姿があらわれている。
 次に通貨については次のような触を出しておりまだまだ幕府体制の維持を図っていた様子が窺える。
安政度吹立候弐分判之義新金と引替可申旨去ル申年中相触置候得共兎角引替方等閑ニ付向後世上通用停止たるべく候就而は引替御手当百両ニ付弐拾両被下天保度吹立候弐朱金之義兼而相触置候通世上通用停止ハ勿論引替御手当之義是まで百両ニ付六拾両之処九拾両に下候間右弐分判弐朱金両様共所持のもの早々引替可申立様格別之増前被下候上者速ニ引替可申候 若此上持貯候か又者不正之取引致候族有之ニおいては相糺取上之上急度咎可申付候
右之趣可被相触候事
 六月(慶応三年)

(郡司家文書)

 更に注目すべきことは政権交代が行われると殆んど無価値になる怖れさえある金札が慶応三年(一八六七)八月幕府の手によって発行、これの通用方がこの地え触れられていたことである。
 八月 日
此度兵庫御開港商社御取開相成候ニ付而は融通之ため此節より金札当分之内通用被
仰出候ニ付都而通行金銀同様相心得御年貢其外諸公納物ニ相用候而も不苦候間五畿内近国共無差支通用可致候 尤も右札正金ニ引替之義者商社会所并ニ商社頭取其外御用達共方ニおゐて引替候筈ニ有之候 右引替ニ付而の歩割減等一切無之候間不取締之義無之様正路取引可致候事
右之趣御料者御代官御預り所 私領は領主地頭より不洩様可被相触候
右之通可被相触候

(郡司家文書)

 この金札がどの程度この辺で通用されたかは明らかではないが、何れにしてもこの様な触書が出されていたことは、一般人にとってはまだまだ幕府政治の永続を思わしていたことであろうし、また幕府の政策の一つとしてこのような処置をとったものかとも考えられる。かかる間に慶応二年(一八六六)一月に薩長連合の盟約なり慶応三年(一八六七)十月十四日討幕の密勅が薩長にくだった。
 この期諸藩においては倒幕、あるいは佐幕を唱え同一藩内において倒幕と佐幕とに分裂したものもあり、天下大いに乱れようとした。
 大田原藩、黒羽藩その他この近隣の諸藩においても同様でこのため密かに人を京都に派して天下の大勢を視察、最早幕府の命脈いくばくもないことを見極め朝廷方に立つに至ったことは初めに記した通りである。
 前土佐藩主山内豊信(容堂)は深くこれを憂い、平和の間に事を解決しょうとして、その臣後藤象二郎をして岩倉具視、西郷隆盛等を説かしめたが飽くまで徹底的討幕を主張した強硬派はこれを納れず、そこで建白書を京都二条城に滞留していた徳川十五代将軍慶喜にあがり、大政を奉還して政令を一途に出でしむべきを説いた。慶喜も深く時勢を察し、永く祖業の維持し難きを覚り、在京諸藩の重臣を二条城に召集してその意見を徴した。
 その結果慶喜は慶応三年(一八六七)十月十四日大政奉還を願い出、翌十五日勅許がおりた。
 十二月九日王政復古の大号令が発せられ、ここに新政が開かれることとなった。この時慶喜は二条城にあったが、皇政復古の会議にあずからず、翌十日には尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永が二条城に来たって、内大臣を辞し、封土返上の内旨を伝えたため、会津、桑名並びに旧臣達は大いに怒り、これは薩摩藩の犴計によるものとし形勢おだやかならず、心配した慶喜は会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬等を随え大坂城へ退いた。
 その頃江戸においては薩摩藩邸で多くの浮浪人達を集め、江戸市中を横行して乱暴を働かしめ、掠奪した金品は薩摩藩の船に積みこんでいた。怒った旧幕臣達はこれは薩摩藩陰謀とみて遂に薩摩藩邸を焼打、藩摩軍船も撃ってこれを走らせた。
 この報を得た慶喜は大いに怒り、慶応四年(一八六八)正月三日討薩の表を捧げ会津、桑名の兵を先鋒として京にあがらんとしたが、鳥羽、伏見において薩、長軍のため敗れ、慶喜は会桑二藩主等を随え幕府の軍艦開陽丸で海路江戸へ逃げ帰った。
 朝廷では慶喜以下の官爵を削り、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、西郷降盛を参謀として東海、東山、北陸の三道より江戸に向かわしめた。
 なお故人見氏はその稿に「会津戦争の起因とその真相」として次のように記している。
慶応二年(一八六六)八月将軍家茂薨ぜるを以て、一橋慶喜をして宗家を継がしむ。十二月慶喜十五代征夷大将軍となる。此月天皇崩御孝明天皇と謚し奉る。三年正月御子睦仁親王大統をつぎ給う。御年十六、之を明治天皇と申す。慶応三年(一八六七)十月十四日征夷大将軍徳川慶喜既に政権を奉還、是に於て皇政一新神武天皇の創業に基くこととなった。
新に総裁、議定、参与の三職を置く。然るにかかる朝廷改革に際し、慶喜並に幕府方は一人も評議に預るを得ず、且つ内大臣を辞し封土を返上する内命さへ下されたれば、旧幕臣は之を以て薩長の専断の結果となして大いに憤慨し、慶喜亦甚だ不平なりしが朝敵の名を怖れ薩長の兵と幕兵の衝突を憂い、会津、桑名二藩の兵を率いて二条城を退去して大坂に赴き上書して、近日のこと薩長の専断に出ることを論じた。
徳川慶勝、松平慶永其間に居りて調停し、慶喜旨を奉じて将に入朝せんとす。
是より先嘉永六年(一八五三)六月米国使節ペリー来航し、和親通商を請いしより一ケ月露使プーチャチン長崎に来り、また通商和親上樺太の国境決定を求めた。間もなく英国水師提督スターリング和親を要求した。
是に於て攘夷論大いに起りしが、安政三年(一八五六)ハリスと仮条約を結ぶ。堀田正睦上京して勅許を乞う。許されず。天下騒然として収拾すべからず。老中その座を退き、井伊直弼桜田門外の変となり、その後安藤信正幕府の勢力失墜の応急策として、朝廷(以下欠)
是より先荘内藩酒井忠篤江戸城を留守す。薩兵江戸三田邸を根拠となし、而も岩倉具視、西郷隆盛等は徳川方を怒らしめ、一戦を試みざれば王政復古の実はあげ難しとなし、依て浮浪の徒を召集し大いに府下に放火剽掠し、又荘内邸を却撃す。荘内巡警の幕兵は遂に十二月二十五日を以て三田薩邸を砲撃して之を焼く、報大坂に至る。徳川方の激昂は極点に達し、慶喜また入京に決心す。
慶応四年(一八六八)正月朔日会桑以下の将士大坂に集り慶喜に説くに、兵を以て京師に入り、君側を清めんことを以てす。慶喜遂に意を決し、慶応四年(一八六八)正月二日会桑二藩の先駆となり、諸代諸藩の三万浪華を発す。
会津は伏見道の先鋒となり竹内丹後之を督す。桑名は他の幕兵の先鋒となり鳥羽道を進み松平豊前守之を督す。京師震恐す。ただ兵律度なく識者之を憂う。声言して曰く「前将軍将に入京せんとし、先づ前衛両道の兵を遣はし将に三日を以て京師に入らんとすと。乃ち薩長二藩の兵をして両道を戍らしむ。三日幕兵の大兵至る。薩長の戍兵砲を放ちて之を拒ぐ。遂に戦を開く。之を鳥羽、伏見の戦とす。朝廷議定仁和寺宮喜彰親王を征討大将軍とし、錦旗節刀を賜りて之を征せしむ。連戦四日幕軍敗れて大坂に走る。慶喜錦旗の出ると聞きて大いに驚き、会津、桑名等藩主、板倉候等を率いて六日夜海路より江戸に帰る。初め敗聞大坂に至る前将軍衆を会して謂て曰く「今日のこと好んで戦を為すに非らさるなり、其誠意の若きは前書之を審にす、下幸趣旨未だ達せず事遂に此に至る。是実に終天の遺恨なり、然れども誠心赫然俯仰恥ずるなし、寡人唯応さに此に殉ずべし、関東忠義の士豈其志を継ぐ者なからん哉、汝等其れ寡人の心を体せよ」と衆悲慟せざるなし。而して事遽かに此に至る。全軍愕然として遂に大いに潰う。
朝廷にては慶喜大坂より兵を率いて上洛せんとせしは叛意明瞭なりとして、慶喜以下二十七人の官爵を削り、慶応四年(一八六八)二月熾仁親王を東征大総督に任じ、西郷隆盛を参謀とし、諸藩の兵を徴し、東海、東山、北陸の三道より江戸に向わしむ。
徳川譜代の臣属みな守戦を主張す。殊に幕臣中には仏奈音(ナポレオン)三世の兵力を借りて薩摩藩を討たんと企つものもありしが慶喜之を斥け其臣勝安房、大久保一翁等をして之を諭さしめて謹慎の意を表す。
三月大総督駿府に入る。輪王寺宮親しく駿府に至り、有価川宮に見えて天下の大計を明らかにし、以東西を和せんと欲す。西軍聴かず、慶喜恭謹して江戸城を出て寛永寺に退き朝命を俟つ。是時諸道の西軍己に江戸に逼る。その後勝安房、山岡鉄太郎に命じ隆盛に就いて謝罪せしむ。降盛総督宮に○し進発を停む。
四月四日勅使江戸に入り慶喜の死一等をゆるし、退きて水戸に居らしめ、江戸城及軍船、鉄砲を収め、家臣の与謀者を処分せしむ。
慶喜此日大命を奉す。十五日総督宮江戸に入る。将軍代家斉曽孫田安家達をして宗家を継ぎ、三河、常陸ノ内七十一万石を与へ駿河に封ぜられ、其の臣下の官位を停む。江戸開城に当り当時幕臣中に慶喜の処理に不服の徒多く、東叡山に拠り輪王寺公現法親王(白川宮能久親王を奉じて官軍に抗す。諸藩の浪人之に加わり、称して彰義隊という。慶応四年(一八六八)五月大将大村益次郎は西軍を率い、上野黒門前に撃破し親王会津に走る。これより先榎本武揚軍艦八隻を以て遁る。大鳥圭介、福田道直等数十人江戸を出て上総に走る。市川において伝習隊第一大隊秋月登之助に会す。
上野の戦に敗れし大鳥圭介は歩兵千百人を率いて下総に至り、福田道直等千五百人は上総に走る。榎本武揚は軍艦七隻を率いて房州館山走れり。
四月十九日大鳥の為に宇都宮城陥る。依て土佐、因幡は奥州街道より、薩長大垣は結城をうちて宇都宮に会す。
慶応四年(一八六八)二月廿六日左大臣九条道孝奥州鎮撫総督に任じ、沢為量は副統督、醍醐忠敬、大山綱良、世良修蔵参謀となり、三月二日薩藩百三人、長藩一中隊、筑前百五十八人、仙台藩百人の守衛兵を率いて京都を発し、海路奥州に向い、三月十日浪華を出帆、十九日松島上陸、一時観瀾亭を営所とした。
四月二十六日会津藩主松平容保は使を米沢、仙台二藩に遣わして降を請うたので、閏四月四日仙米両藩は奥州の列藩に廻文して、其重臣を白石城に会合して、会津救解の議を決した。重役の合同したものは盛岡、二本松、守山、棚倉、三春、山形、福島、上ノ山、亀田、一ノ関、矢島等であった。十二日仙・米両候は会津候の歎願書に両藩の歎願書及び白石城会同の十四藩重臣の歎願書を添えて、仙台岩沼にある九条総督に謁して之を呈上し、親しく事情を述べて会藩の為に哀を請い兵を止めんことを乞うた。総督深く之を諒とし、歎願書を受領し速に奉聞に及ぶべしとの旨であった。
九条総督は飛脚を以て、参謀世良修蔵の出張先の本宮に送り、その意見を徴せしめた。修蔵之を見、直に筆を執って左の附箋をした。
 会津容保儀不天地罪人に付速に討入可功事
此時奥川同盟が結ばれ、形勢容易ならずと見た修蔵は東山道先鋒参謀伊知地正治に急書を寄せて白河に援軍を求め、自ら岩沼の総督府に赴き軍議を謀らんと、十八日駕を飛ばして十九日福島に到り、北町金沢屋に投宿した。
偶々仙台藩士瀬上主膳、姉歯武之進等土湯口の荒井、鳥渡の陣を引揚げて福島に在った。瀬上、姉歯等は世良一人の為に奥州諸藩は塗炭の害をうく、此機失うべからずとなし、甘言を以て夜三更世良修蔵を宿楼に饗応し、福島藩目明し浅野某、仙台藩赤坂某をして夜三更金沢屋の寝所を襲いて、世良を捕縛し、二十日屋敷河原に斬り、屍を阿武隈川に投じ、首級は白石城なる奥羽越公議所に送り、之を城外月心院に葬った。修蔵時に三十四歳であった。
是に於て奥州列藩は二十三日、再び白石城に会した。この時新に秋田、弘前、新庄、八戸、平、福山、泉、本庄、湯長谷、下手渡、天童等が加わり二十五藩の同盟となった。
相議して曰く「宣しく公義正道に依り奸賊を清掃し、忠を朝廷に尽さざるべからず」と衆議一決し列藩の重臣盟約調印して、太政官に建白書を上った。翌五月には米藩の遊説によって越後の新発田、村上、村松、長岡、三根山、黒川の六藩も加わって、奥羽越の同盟が成立した。
同盟の成立した時仙・米の両藩は「同盟の挙は聖明を壅寒する君側の奸(薩長を指す)を攘い、海内の擾乱を鎮定するにありて、徳川幕府を回復し貴藩を援助する趣旨に非ず、誤認する勿れ」と会藩に告げた。
会藩の梶原平馬等答えて曰く「寡君固より王師に抗するの意なし、君側を清めんとするにあるのみ」と。
これ戊辰奥州戦争の起った要点である。

  慶応四年(一八六八)(戊辰)期のこの地の状勢
 慶応四年(一八六八)になると急速に西軍方の勢力が伸びてきた。
 前に記したように慶応三年(一八六七)十月十四日慶喜の大政奉還、十二月九日に王政復古の大号令発布となり、政令もすべて天皇により発せられることとなった。
 政府はこのむねを諸外国にも通知、官制の改革を行った。
 まず摂政、関白、征夷大将軍等旧来の諸官職を廃し、新たに総裁、議定、参与の三職をおき、総裁には有栖川宮熾仁親王を、親王、公卿および諸大名により議定を公卿並びに諸藩の賢良中より参与を選んだ。
 このうち公卿の参与を上参与、諸士の参与を下参与といい、薩摩、尾張、安芸、越前、土佐、各藩は各三人づつと定めた。これを徴士といった。
 これより万機は天皇の親裁となり、広く公論を採取し、旧幕府の法制、慣習でも善良なるものはすべてそのままこれを守った。
 前記三職の外に貢士というものがあり、大藩より三名、中藩より二名、小藩より一名を選出せしめた。しかしいまだ藩別にこれを選出する準備が整わなかったためさしあたって更に範囲を拡げ賢俊を天下に徴し官職に就かしめた。これが世にいう御一新、王政復古、または王政維新である。
 大田原藩では当時次席家老大田原一学京都にあり、用人権田峰蔵は貢士に選ばれている。
 かかるうちに前記鳥羽、伏見戦となり、慶喜江戸退去、東征軍の江戸へ向っての進撃、これを契機として新政府による各種の布告と幕府による諸達しが入り乱れて一般に触れられ、更には混乱に乗じた無頼漢の横行、一方旧幕時代における豊民の不満と暴動化によって更に混乱を重ね多くの民衆は如何に身を処すべきかに迷った。
 まずいち早くこの地にもたらされた西軍方布告について記してみると、
慶応四辰年御達 農商江布告
此度東山道鎮撫総督え
勅命ヲ蒙発向ノ次第ハ先達而朝廷ヨリ御触モ被為在候通ニ候得共遠国偏土ニ至リ候而ハ自分行届兼哉モ難計ニ付尚諸国ノ情実ヲ問万民塗炭ノ苦ミ被為救度叡慮ニ候間各安堵ニ渡世可致候 尤是迄天領ト称シ来リ候徳川支配地ハ勿論諸藩領分ニ至ル迄年来苛政ニ苦ミ罷在其外子細有之輩ハ無遠慮本陣江可訴出〓議ノ上公平之処置ニ及候間心得違無之様可致候事
 戊辰正月
                     東山道鎮撫総督
                     同   副総督

(藤田隆蔵宇田川文書)

 これは東征三道軍のうち岩倉具定を総督に岩倉具経を副総督とした東山道軍の発した布告である。
 東征軍のうち東山道軍は慶応四年(一八六八)一月二十一日京都を発し、翌二十二日この布告を出し以来行く行くその道筋にあたる諸国村々に布告しつつ進んだ。この近辺にこの布告があったのは何時頃であったかは不明であるが、東山道軍が江戸近郷板橋宿に到着したのは慶応四年(一八六八)三月十三日であるところよりみて、大体その頃に布告されたものと考えられるのである。後記のように二月には幕府の諸達しが出されておったのである。
 前に記したように一般人民は不安と動揺の中におかれたため、その名の如くそれらを鎮撫するための布告でこの外にも次のような布告が出されている。
此度東山道鎮撫総督え
勅命ヲ蒙リ発向ノ次第ハ先達而従朝廷御触モ被為在候通リニ候得共遠国偏上ニ至テハ自然行届兼候哉モ難計ニ付尚又諸藩之情実人心ノ向背被為問度
 叡慮ニ候間当道之諸藩主速ニ本陣江罷出情実具陣実効可相立候 於背命ノ輩者厳刑可被者也
  戊辰正月
                     東山道鎮撫総督
                     同   副総督

(宇田川文書)

 前記は一般人えの布告であり、これは藩主達えのもので前者に比し極めてきびしい態度で臨んでいたことが判る。
近日滋野井殿家来杯ト唱ヒ市在江徘徊致米金押借人馬賃銭不払者モ不少趣全ク無頼賊徒ノ所業ニ而決シテ許容不相成候
向後右様ノ者於有之押置早速御本陣江可訴出候 若シ手向致候者ハ討取候共不苦段被仰出候事
但此度岩倉殿家来杯ト偽右等之所業ニ候者可有之哉モ難計ニ付聊無用捨同様ノ取計可致旨御沙汰ノ事
 戊辰正月                東山道鎮撫総督
                          執事
                     東山道諸国
                        宿々村々
                         役人中

(宇田川文書)

 滋野井殿とは公卿滋野井公寿のことで、東山道軍に先駆し同公卿綾小路俊実と共に旧幕府領地に対して今年の租税半減を告げた者、岩倉殿とは東山道軍総督同副総督、これらの人達の名をかたり横暴を働いて歩いた無頼漢共に対する対策布告で、ここにも当時の世相が見られる。
此度東山道鎮撫総督督御発向ニ付歳八十以上ノ者ハ夫々御褒美可被為在思召ニ候間東山道諸国役人共精々取調書取ヲ以急々御本陣ヘ可申出候、但右取調ノ義ニ付役人共自己ノ愛憎ニヨリ依怙贔貴之事有之候ハハ厳重ノ御沙汰可被為在候間心得達無之様可致者也
 戊辰正月               東山道鎮撫総督
                         執事
                    東山道諸国
                       宿々村々
                        役人中

(宇田川文書)

 この布告は一月二十六~七日近江国愛知川に東征軍滞在中に出された救助布告のうちの一部を記した布告である。愛知川における布告では「年令八十歳以上ノ者及〓寡孤独貧窮無告之民共ハ広ク御賑恤被遊忠臣、孝子、義夫、節婦等ノ聞エアル者ハ夫々御褒美可被下」とある。
 これは民心の懐柔策をはかった布告である。
 御制札
徳川慶喜天下之形勢不得己ヲ察シ大政返上将軍職辞退相願候ニ付朝議之上断然被 聞召既往之罪不被為問列藩上座ニモ可被 仰付之処豈図ランヤ大坂城江引取候趣旨素ヨリ之作謀ニ而去ル三日麾下之者引卒シ剰ヘ帰国被 仰付候会桑等の先鋒トシテ 闕下ヲ奉犯候次第現在役兵端ヲ開キ候事ニ而慶喜反状明白始終奉欺 朝廷ヲ候段大逆無道其罪不可遁爰ニ至リ候而 朝廷御宥怒ノ道モ絶果不被為得己御追討被仰出候抑兵端既ニ相開キ候上ハ速ニ賊徒誅〓万民塗炭為救度叡慮ニ候間今般仁和寺宮征討将軍ニ任候
 随テ者是迄偸安怠惰ニ打過或ハ両端ヲ抱キ或ハ賊徒ニ従ヒ居候者タリトモ真ニ悔悟憤発国家之為尽忠ノ志興起候輩者寛大之思召ニ而御採用可被為在候 尤此御時節ニ至リ不辨大義ヲ賊徒ト謀ヲ通シ或ハ潜居被致候者朝敵同様厳刑ニ可被為候間心得違無之様可致候事
 戊辰正月
                                      参与
 
但諸藩江御触書ニハ仮令賊徒ニ従ヒ譜代臣下ノ者タリトモ悔悟憤発国家之為尽忠之者有之輩ハ寛大之思召ニ而御採用可被為在候 依戦功此行末徳川家之義ニ付歎願之儀候得ハ其筋ニヨリ御許容可有之候ト御文言有之農商工御布告ニハ是迄徳川支配致候地所ヲ天領ト称シ居候者言語同断之義ニ候
此度往古之天朝之御料ニ復シ真ノ天領ニ相成候間左様ニ相心得ベク候ト申御文段ニモ候条両様ノ御至意猶以厚ク遵奉致心得違無之様可致者也
 戊辰正月                東山道鎮撫総督
                          執事

(宇田川文書)

 この文書所在の大田原市宇田川は旗本久世氏の知行所、西軍方においても特別の配慮を払ったものである。この布告の中に徳川家の存続を書してあるのはそれである。
 かかる状勢下初記の京都に派遣されておった大田原藩の三人の者達は急ぎ帰藩した。
 なお帰藩に先だって左の建言書を朝廷に差出した。
徳川慶喜の反状明白始終朝廷を欺き奉り候段大逆無道御宥恕遊はされ難く己むを得されずして御追討被仰付候ニ付 仁和寺宮様征討大将軍に被為仕賊徒御平治万民塗炭に苦しむを被為救度叡慮御沙汰の趣難有拝承仕早速鉎丸在所に申遣候儀に御座候 遙察するに目下東国筋の通信甚心許なし 盖鉎丸在所下野国大田原城たるや江戸府内を距る凡三十有余里にして近国は公儀領と唱へ徳川氏の代官支配地又は同氏譜代の諸候或は麾下の釆邑地等に有之就中会津城を距ること僅かに二十里に過ぎず全く賊徒の敵囲中にこれある者の如く依りて方今の形勢に於ては賊徒等何様の奸策を相醸し候哉も難計殆心痛仕候 尤朝敵の徳川に対し援助等を可為者無之筈には候へ共事情相通ぜざる場合に当り自然賊徒の奸謀に陥り候様之儀有之候ては鉎丸一己の安危のみならず、天朝に対し奉りて恐入り候次第に有之候に付今般御追討仰出され候 同時に官軍の御進発被為有候様仕度万一御進軍に時日を移し候節は徳川の賊徒等のみに退らず此挙に乗し賊類蜂起の程も料り難く彼是以て憂慮仕り候間不取敢常野州中鎮撫の為然るべき藩御選定の御沙汰仰出させられ候ハハ鉎丸幼冲且小藩たりと雖朝旨を奉体し家来共一同万死を以て奉公可仕候 右者急劇に接し微身恐懼多罪を顧るに遑あらず此段建言仕候以上
 戊辰正月十二日
                     大田原鉎丸家来
                        権田峰蔵
 添書
大田原城の儀は城地狭隘に候へ共関東要衝の地にして既に慶長年中家康公関ケ原陣の際奥羽の押へとして鉄炮組足軽五十人を大田原城に附属して守衛せられ別段武器粮米等をも相備へられ候由諸も有之候間猶宜しく御沙汰被成下度此段申添候 以上
 正月十二日
                        重臣之者

 右に対し太政官より次の通牒があった。
   御用候間唯今早々太政官へ参上可有之候様岩倉殿被命候 仍申入候也
 この通牒に接し権田峰蔵太政官代に参上次の御沙汰書を受領した。
過日伺之趣神妙に思召候既に会津本城襲撃之儀は仙台へ被仰付尚又奥羽各藩へも追々被仰付候義も有之候に付緩急計時機宜奉公可有之旨御沙汰候事

    辰正月
 この御沙汰書を得ると大田原一学以下藩派遣の在京士達は、急ぎ帰藩、幕府の余命最早いくばくもなく今や藩を挙げて、一致協力西軍方につくべきであることを力説、幼主(勝清―錐丸)を擁して西軍方に立つことになった。
 黒羽藩においてもほとんど同様であるが前年(慶応三年)十二月九日藩主大関増裕(写真1)、金丸八幡社(現大田原市金丸那須神社)裏、大塚の東北部の叢林中において狩猟中変死後、藩論は西軍方加担に一致した。

写真1 黒羽町招魂社にある大関増裕公胸像


胸像の台石に刻んである大関公の略歴

 増裕の変死については自殺説、誤死説更に他殺説さえある。
 自殺説は当時黒羽藩の一家老であった大関弾右衛門の寡婦が後になって、増裕の事故死前弾右衛門に対しおのれのおかれている立場の苦渋を語り、自殺をほのめかしていたことを弾右衛門より聞えていたと語ったことを小林幸平がそれを記し発表したことによる。
 誤死説は当時増裕は若年寄兼海軍奉行として幕府の要職にあり、朝幕間を如何に解決すべきかと日夜腐心、慶喜の特命を受け上洛せんとした直前でこの難局を解決する責務と自負を持った増裕が自殺によってその責務を免るがごとき行為をなす筈はない。しかもその様な重大な決意を弾右衛門のみ語るなど到底信ずべからざること、また当時の状況を記した藩記もまた自殺を裏づける何らの記事も見当らず、これによって自殺なぞ考え得る何物もなしとしている点より誤死説となっている。
 これにつき蓮見長氏はその著「那須郡誌」に次のように記している。
増裕幕府の枢機に参与し、且西洋事情に通暁する以て、我が国運の将来を洞察して、心中竊に尊皇開国の深謀を抱き、慶応三年十月、近習三田深造を八塩庄兵衛と仮称、佑筆佐藤均を那須真小一と変名せしめて京都に上らせ、自筆に成る勤皇内奏書を、某公卿(五条少納言為栄ならんと云う)に傅達せしめたが、同年十一月、幕府より京都差遣の内命を受けたるを以て、皇事に勤めんと欲すれば、則ち幕府に忠なる能はざるの窮地に陥った。依って京都出張前、帰邑して藩政を処理する必要ありとして、幕府に賜暇を願い出で、往復二十日の許可を得、同年十二月三日、江戸を発して帰藩した。蓋し幕命に応せず、徐に善処せんと謀る所があった為である。同月九日、都塵洗ふべく、城下一里許りの原野に狩猟を試みたが、誤って自己の携持せる猟銃に触れて、敢なき最後を遂げた。行年三十一(増裕の変死を以て、自殺となす説あれど従ふべからず)

 次に筆者(岩瀬氏)は当時増裕着用のフランス製ラシャ服(現在大田原市金丸那須神社宝物庫保管)を検してみた。
 それによると背部中央上部より左腕附根前下部に貫通した弾跡と思わるるものがあり、そのこんせきは背部は小、前部は大となっている。前部は事故当時これを切開き、その後縫い合せた部分もあるが、弾丸の脱け出したと思わるる部分はそのまま残っている。
 なお服の背部には右の外にも弾丸の入った跡かと疑わしむる部分があるが明瞭ではない。
 出血による服の汚れは前部弾丸跡と思わるる部分より下方にあり、尚背部下方にもそれらしき跡がある。しかしそれは前部は傷を負うたと思わるる直下にあるに対し、服の裾の方にある。
 銃弾こんは人体を貫通した場合入口より出口が拡大するのが普通である。殊に銃孔にラセン条を施したライフル銃においては一層それがはなはだしい。当時増裕使用の銃はどのようなものであったか。また従士達のものがどのようなものか何れも不明であるが、何れにせよ入口より出口が拡大さるることは間違いあるまい。
 これをもってみると増裕の死は何者かのため背部より狙撃されたのではないかとも考えられる。
 即ち背部よりとすれば自殺説は問題にならぬ。誤死とするには果してその様なことが起り得るや否や大いに疑問がある。
 ではこれを他殺と仮定して考えた場合、その加害者は何者か、またそれを語るに足る素因は何かとなると、到底これを裏づけるものは今日は求め得ない。ただ一応考えられることは藩主と藩士達の間の考えの相違である。
 増裕は前記の様に要職にあり、世界の状勢や国内の諸状況に対しても通暁しており、最早幕命いくばくもないことは予見していたであろうし、一面朝幕両者の争いとなると国内は混乱に混乱を重ね、諸外国よりの侵略を招く結果ともなり、日本国の安危にかかわる重大事と考え如何にして朝幕間に善処すべきかを苦慮していたものであろう。
 一方藩士達は藩主のごとく大局をみるの明に乏しくただ藩の存立のみを考え、そのため両者の間に隔りがあったのではないかということも考えられる。
 更に大関家は徳川氏(水戸家と)と深い関係にあり、更に藩主増裕と松平容保は親交の間柄、ここで朝廷方に立つことにしのび得ぬ考えも予測され、一方家臣達は一日も早く朝廷方に立つべく藩論統一に努めておりこのための問題も考えられる。事実増裕死後藩内では朝幕何れに立つべきやについて激論がたたかわされ、遂に朝廷方にと決したいきさつがある。(黒羽藩記)
 以上をもって見ると増裕の死因については数々の問題が残されている。   (以上那須郡誌による)
 「藩では当時増裕の死を堅く秘し、遺骸も夜他に知れざる様城内に移し、その後慶応四年(一八六八)三月十六日常州石岡藩主松平播磨守頼繩の甥泰次郎(時に十七才)を養嗣子として封を継がしめ増勤と改め、始めて喪を公表している」
 なお一部には勝安芳が手下をして暗殺されたのだとの話もあるがかくの如きは採るに足らぬ俗説に過ぎぬ。
 以後黒羽藩はあげて協力一致朝廷方に立つに至った。
 なお外套に残されている跡は散弾跡ではなく単弾跡である。
 普通単弾を猟に用うるのは、熊、猪、鹿などの大形のものか、小さくとも狐(きつね)、狸(たぬき)程度の獣類に対してで、兎(うさぎ)の如きは散弾を用いる。またこの近在に棲む鳥類に対してはすべて散弾を用いる。
 当時那須神社近辺には熊や猪が棲んだとは考えられず、狐(きつね)や狸(たぬき)くらいはおったやも知れぬが、この際の猟は鳥類や兎(うさぎ)くらいを目的としたものと考えてよかろう。
 この辺にも一つの疑問が残される。