第二章 幕兵の大田原城襲撃

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 慶応四年(戊辰)五月二日幕兵一千余人が大田原城を襲撃した。
 これより先、宇都宮に敗れ、また日光口においても敗れた幕軍の将大鳥圭介は閏(うるう)四月十九日会津に入り、再挙をはかった。
 当時西軍は白河口と日光口より進撃を続け、松島に上陸した一隊は岩沼に本営を置き、白河口軍、日光口軍と呼応して会津攻略をはかった。
 この中、白河口進撃軍の一大拠点となったのが大田原である。
 由来大田原の地は関東より奥州への要衝として、戦国時代においても那須氏と白河氏、岩城氏、あるいは会津芦名氏との間の争いの地となっており、小田原戦後秀吉は奥州征服の途次、大田原城に二泊、奥州への要衝として重視していた。
 慶長五年関ケ原の戦いのとき大田原氏はいち早く家康に荷担した。上杉景勝を討たんとして北上した。家康・秀忠の軍は途中石田三成等の叛を聞き、急ぎ軍を引き返し、一方景勝への備えとして腹心石川八左衛門、内藤金右衛門の両人に、歩卒一千余人を卒いさせて大田原にこさせ、天文十四年大田原資清によって構築された大田原城の大改築を行なっている。それは資清の孫晴清の代である。(別図参照)

大田原城之圖

 以来大田原氏は徳川氏よりの信任あつく、寛永四年頃(一六二七)奥州街道が開通するや、幕府は附近直轄領(天領)の産米一千石を城中に貯え置き、更に大砲(権現筒という)十三挺と小銃と銃手五十人を配備、常に奥州への備えを怠らなかった。市内西原の鉄砲町はこの銃手達の住いとなった所である。
 戊辰の役起り大田原藩はいち早く朝廷方にたち、やがてこの地に西軍が進出してくると、この大田原を一大軍事拠点と定め、糧食、弾薬の貯蔵所、人馬継立の拠点、更に軍宿泊の場所とした。
 会津に入った大鳥圭介はおのれの率いた諸軍と会津藩兵をもって西軍反撃の策を練った。
 大鳥圭介は維新当時幕府の歩兵奉行、江戸城の開城が決定したので、これに憤激した有志の徒を率いて関東各地に転戦、戦利あらずして会津に入ったもので、当時、彼に率いられ、指揮された組織には次のようなものがあった。
 ○回天兵――相馬左金次
 ○御領兵――加藤平内
 ○七連隊――米田桂次
 ○伝習第一大隊五百人――秋月登之助
 ○草風隊(幕府士官隊)百五十人――天野加賀、副長村上某
○伝習第二大隊、士官数十人、兵隊四百十一人――大鳥圭介を将に本多幸七郎、山角喜三郎、大川正次郎ら当る。

 ○別伝習――会津人工藤衛守
 ○貫義隊――松平兵庫頭
 ○純義隊――会津人渡辺綱之助
 ○誠忠隊――山中幸治
 以上およそ二千余人、総監大鳥圭介、参謀土方歳三(以上組織は大町雅美、戊辰戦争による)
 土方歳三は近藤勇を隊長とした新撰組の副隊長となった人である。
 大鳥圭介は上記二千余人に更に会津藩兵を加えたものを三隊にわかち、一隊は日光口へ、一隊は白河口へ、そして一隊は大田原襲撃に向わせることとし、閏(うるう)四月十日進撃命令をくだした。
 この内、日光口へ向ったのは圭介の率いる七連隊、御領兵合わせて三大隊三百三十人(一大隊は百十人)伝習士官隊二大隊三百七十人(一大隊百八十五人)、これに会津藩参政山川内蔵の率いる会津藩兵千四百人、合わせて二千百人、圭介みずから総監となり閏(うるう)四月十五日田島を出発、十七日には高原山を越えて藤原村に進み、まずそこで陣形を整え、十九日に戦争が開始した。これより五月半までこの方面の戦闘が続けられ、初期には幕軍有利であったが、西軍は漸次後続部隊が到着、戦闘力が増大したため、幕軍は不利に陥り今市北方まで進めた軍を再び会津に向って後退するの止むなきに至った。
 この追撃戦には大田原軍も加わっている。
 (後記)
 圭介の日光口進出の目的は、先に失った日光奪還のみではなく、更に壬生、小山まで進んで、西軍の奥州進出の後方分断策を講じたものであったが、遂に目的を達し得なかったものである。
 白川口幕軍はひとたび白川城を陥れ、鍋掛、越堀辺にまで出没する形勢となったが、僅か一週間にして西軍に奪還され、これを再び陥いれんとして進出したもので、これに当ったのは新撰組五百人と貫義隊、更に会津兵を加えた一千余人、西軍方もこのところこそ会津進撃の最重要地と考え、全力を尽してこれに当ったため、戦況は一進一退であった。
 次に大田原進撃をはかった軍勢は那須の三斗小屋越えの道である。
 会津国境への道は二十一道あり、このうち白河道、越後境、上州境、日光道、五十里越え、米沢境、二本松境、三度越え(三斗小屋越え)の八道は最もけわしくこの関門の一つが破らるれば、実に会津城の死命を制するとさえいわれている。
 この重要地三斗小屋を越えて幕軍は大田原襲撃を図ったのである。
 これに従った幕軍は伝習隊(遊撃隊ともいう)五百人、原田主馬之助を隊長とする会津兵一大隊と大炮隊、下総飯野藩(保科弾正忠)の脱藩士森要の率いる一隊、合わせて一千人が三度越えを経て三斗小屋宿に出で、板室を通り百村に宿泊した。それは慶応四年(一八六八)五月一日である。
 翌早朝彼らは百村を出発、高林を経て、上横林に出、そこで軍を二手にわけ、一隊(二百人)は関谷に出、それより南下、石上より薄葉に至り、大田原へ向った。八百人の主力部隊は大田原御用堀に添って接骨木(にわとこ)、富山を経て石林に至り、それより堀の内に入り身をかくしつつ大田原城に接近した。
 この御用堀は蟇沼(ひきぬま)において蛇尾川の水を新しく堀った堀に引き入れ折戸、上横林、下横林、接骨木、富山、石林の旧大田原領村を流下、荒町口より城の西側濠に注ぐもの、城濠用水と堀添いの村々の開発を図ったものである。この年代は確かではないが大田原晴清の代(永禄十年(一五六七)寛永八年(一六三一)であろうといわれている。現在でも堀添いの村々はこれを利用している。
 これより先、大田原藩では東山道総督より関東各地に東叡山敗残の凶徒が横行するので周到な警戒をするよう命令があった。
 そこで藩では各領村に布告、万一風体怪しきもの徘回する時は、直に届け出でさせ、かつ夜警を行なって非常に備え、また領地境の警戒は特に厳しくし、要所には足軽および農兵に銃を持たせて、士分のものが監督にあたった。更に城下四方の要所には番兵を置き、士分のものを監督にし、番所には足軽および農兵六十余人を配置、日夜厳重に巡察、警戒していた。
   一番隊  東―河原口
           隊長 阿久津忠義
           戦士
             >早川正宣
           組頭
   二番隊  南―輪ノ内
           隊長 山田勝意
           戦士
             >未詳
           組頭
   三番隊  西―新道(下町)
           隊長 阿久津昌備
           戦士
             >阿久津忠順
           組頭
   大炮隊  北―石林
           隊長 内山伊織
           炮射手 渡辺渡
               森新之助
            外―二名
 しかるにその後西軍は、大田原を経て白河口に向ったので、大田原の藩兵もこれに加わり、阿久津忠義がその指揮にあたっていた。
「会津兵三斗小屋ヲ越エテ南下、大田原ニ向フガ如シ」。この報、以前から黒磯町油井(大田原領油井村)に出しておいた警戒兵よりの知らせを受け、大田原藩では急きょ鍋掛宿に向っていた阿久津忠義の許に急使を出し、急ぎ帰藩せしめた。
 その後、刻々幕兵の動きが藩に通報せられ、彼らが前記進路をとって、大田原に向っていることを知り、城の守りを厳にするとともに、午前九時別動隊を荒町口におき、また阿久津正右衛門を隊長とした一番隊兵百余人は成田町に陣をしいた。
 こうしたところへ斥候は「会津兵八百余人、沼ノ袋及び石林方面に来る」と報告したので、兵を経塚にまで進め敵を待った。
 慶応四年五月二日は太陽暦では六月二十一日にあたり、偶々御用堀近くの沼ノ袋地内水田で、田植準備作業をしていた磯ナヲ氏(現磯長作氏祖母)は堀中を進んできた幕兵の姿をみて、驚いて立ち上がると、幕兵は気付かれたと思い、銃を向けて打つぞとおどかした。しかし相手が泥まみれの百姓女であるので、銃を放たず、ナヲ氏は驚いて急ぎ家(沼ノ袋北部)に逃げ帰り、更に蛇尾河原に出で、まわり道して平林の実家(相馬利雄氏)に、かくれた。慶応四年五月二日午前十時頃のことである。ナヲ氏は昭和元年十二月三十一日七十七歳で歿している。
 石林より進んだ幕兵は、やがて大田原藩兵の姿をみつけるや、これに向って大炮を放った。藩兵もまた銃を放ってこれに応戦した。彼我の銃弾はいよいよ激しく飛び交い、戦士平野薫敵弾に当って負傷、両者接近して白兵戦となり、貝鼓手久島総太郎重義は敵中に突進、遂に戦死した。
 交戦四時間、敵も容易に進み得ず、午後二時、にわかに大雨降りそそぎ、当時藩兵所有の小銃は火繩銃であったため、雨水が銃口に入り、弾薬湿って発火せず、依って全軍大手口に退き、ここで防いだ。
 一方、三番隊長大田原鉄之進晴親は、兵十余人を率いて下町口の関門を守ったが、本城危うしと聞き、急ぎ馬を馳せて正法寺門前に到ると、幕兵銃槍を集めて逼ってきた。晴親最も槍術に長じており、奮って敵一人をたおし、二人を傷つけたが、遂に敵弾のために斃れた。
 大田原晴親暮碑(光真寺墓地、官修墳墓)(写真2)に、次のように記されている。

写真2
官修墳墓(光真寺)
大田原鉄之進晴親の墓

墓言
慶応四年五月二日会賊手餘間道来襲殆逼本城時晴親君率銃卒十許人守駅口之関門及戦作其所率之卒狼狽四散於是欲卅数人者本城提槍馳之而賊既填塞駅中無路進之及疾走進賊中賊視君疾走過叢銃擬君而君単身孑然一復一人属者君平素善用槍即揮其所提之槍奮闘立殪一人傷二人且戦旦馳□賊四面聚於君遂為基乱丸所斃豈不可惜哉君姓丹治氏大田原称鉄之進受秩百五十石勲戚之世家也用番兼徒士頭死年三十有七此日之戦我兵戦死者数人而君戦〓力及主公挙慶典褒戦功者首賜君遺孤秀之助君秩五十石増於基旧秩以酬旦戦歿鳴呼君而知有亦可以〓矣今年月日一週年忌辰年考君欲勒君戦死之状於石標徴余誌及略叙基顛末如此
 明治二歳在巳巳夏四月
                    金枝健 撰文

 この時に当たり、薄葉より進んだ幕兵は新田口(薬師堂西)に出で、下町、中町に火を放ち、更に半之助堀を伝って大手門を襲った。火は郭内一帯及び侍屋敷二十余軒を焼いた。
 また一隊の幕兵は大久保門口より、第一郭、華陽門に追った。刑部銭衛、河野育三郎、山田収など部下を督して防ぎ戦ったが、敵勢頑強にして攻撃益々急である。(写真3)

写真3 戊辰戦当時の大田原城模型
上、正面より、下、後搦手方面から大田原城をのぞむ
(模型、宇都宮駐とん部隊広報室保管)

 時に午後五時を過ぎた。早川永宣、太田義明、滝田祗徳等坂下門にいて、銃を放って防いだ。永宣城堞に上り、敵状を望見し、将に下らんとして、たまたま流丸胸間を貫いて重傷を負い、再びたつ能わず、収之を介錯した。
 阿久津忠義また本城の危急を聞き、兵を収めて還り、ついで阿久津頼安など藩兵百余人を率いて征討軍に参加して芦野駅に在ったが、本城の急を聞き急ぎ帰城、遅沢正記、その子銀太郎と本城におり、連(しき)りに権現筒を放って応戦した。敵兵もこの権現筒に恐れをなし、容易に城に近付こうとしない。この権現筒は前に記したように、徳川氏が奥羽諸藩への備えとして、寛永年間より大田原城に配備して置いたもの、それが奇しくも二百余年後、幕府の直属兵及び親藩兵に向って放さるることとなったことはまことに皮肉である。
 なお権現筒とは家康の神号、権現にちなんだもので東照公大権現の略、この家康よりの砲の意である。
 その際、幕兵の隊長は会津藩士原田主馬之助、弟某また敵中にあり、兄の隊を大原田隊、弟の隊を小原田隊といった。
 大原田は国老大田原数馬邸の土塀に上り、旗を振って指揮していた。このとき農民重右衛門(笹沼村)銃を擬してこれをたおした。敵はこのため大いに動揺した。
 時に敵兵華陽門内なる御作事場に火を放つものがあり、たちまち轟然たる音響と共に爆発が起った。
 これは東征大総督府よりの命により、小銃弾薬約五万発を納れて置いたもの、敵方においてはこれを地雷の爆発と感違いし驚愕した。喇叺を吹き鳴らし、兵を収めて石林北口より乃木神社前へ、そして南小屋を通り塩原町関谷に出で、それより塩原へ走った。
 当時は南小屋より関谷までの間約十二キロメートルは原野で、彼らはこの原野を通って関谷に出たものである。
 なお彼らは引揚の途中、数名の死骸を大田原高等学校前の雑木林に埋めて立去っている。場所は沼ノ袋より市役所に向う横断道路の北側、約百メートル東野鉄道の東側で現在は水田となっている。
 しかしこの頃は城内には大田原藩兵は一人もなく、城東方中田原山に逃れ、城内は敵の荒らすに委せられる状態であった。
 なお伝えられるところでは早川永宣は当時足不自由のため逃れ去り得ず、一人城中に止って遂に敵弾にたおれたとも云われる。

慶応四年五月二日 幕軍大田原城襲撃略図

 一応の目的を達成した幕兵は、午後六時半引揚の途中、石林村を焼いた。残ったのはただ一軒(薄井博美氏家)のみである。
 これは当日薄井氏の曽祖母が田植終了のため餅をつく米を蒸しておったが、幕兵が引揚げてき、宿を片端から焼くのをみて、気転をきかし、蒸米を出し「あなた方に食べさせようとして用意して置いた。さあどんどん食べてくれ、なお後からもふかすから」と云ったため、彼らはこの家だけは焼くなと云って立去ったといわれる。更に同家には大田原藩主に食を供するに用いた飯びつといわれるものがあり、幕兵が置いて行ったものといい伝えられておる。
 かつて大塩平作氏は靖国神社記に戊辰戦の際、大田原城は一時会津兵により占領されたとあるに対し、それに誤ちである故訂正してもらいたいと申し入れているが、弾薬の爆破、糧食および家の焼払いにより宿営地としての機能喪失など既にその目的を達成した上は最早長くここに止まる要はなく、いち早く引揚げたもので、占領うんぬんの如きは問題とするに足らぬ。
 なお引揚げに際しては前記権現筒その他を掠奪し去っている。
 この役平野薫、斉藤邦之允、栗田佐治衛門(後死亡)負傷、また農兵傅四郎、半兵衛、彦右衛門など銃弾にたおれた。
 敵屍は華陽門外に一、石林口の麦畑の中に三個を遺棄し、また国老大田原数馬邸内には「会」と記した小旗と小銃若干とが棄ててあった。敵の死傷約四十を数えたといわれるが果して然るか。
 幕兵の引揚げを知った遅沢正記、太田義明、滝田祗徳等は人を派して近村に遁げ隠れた城下の老幼婦女達に、戦争の終熄を知らせたので迫々に帰ってきた。
 なお藩主一清(勝清―鉎丸)時に年わずかに八歳、幕兵城下に迫ると聞くや万一を慮り、輪ノ内守備隊長山田小主水、侍医北条諒斎等附添、搦手口よりひそかに城を出て、中田原より大和久に出で、百姓頭桜岡大内蔵宅(現桜岡米蔵氏宅)にて昼食をとり、それより片府田、福原問屋(現萩原省三氏宅)に休息、それより河内郡柳原新田今井五郎右衛門宅に一泊、翌朝祖母井下郷陣屋に到り二日逗留、更に下郷八ケ代割元役(大田原下郷十三ケ村総名主、領内取締、徴税責任者)鈴木久右衛門宅に七日間滞在、転じて森田邑大田原帯刀家に入った。
 この鈴木家は代々久右衛門と称し宇都宮家よりの出ともいわれ、代々土地の豪族、早くより大田原氏に属し前記のように大田原領下郷十三ケ村の割元役、当時の主久右衛門は縫之助といった人、この戦後しばらく藩主一清の身代りとなって、大田原城にいたのは縫之助の長子藤市で元大田原市長鈴木邦衛氏夫人トウ氏の祖父である。
 又大田原帯刀家は大田原氏の分家、祖は大田原晴清の弟増清、慶長五年(一六〇〇)関ケ原戦後同七年(一六〇二)徳川氏より那須郡森田その他の地千五百石を下賜され、代々江戸城中交代寄合(柳ノ間)に詰めていた家柄、代々帯刀を称していた。藩主一清は五月十五日帰城した。
 なお藩では五月七日、阿久津新五郎、池沢兵助両人を東山道総督府に伺候せしめ、城下戦闘状況を報告させている。
 また六月二日には大谷長太郎をもって太政官に戦争の始末を届け出でせしめた。(大政官日誌第五十七号)
 翌明治二年六月十六日左の沙汰書を拝領した。
其藩過日以来数度ノ戦争、城下其ノ外為兵火致焼失、土民共ニ雨露ヲ侵シ、巡邏防戦ノ労人馬継立ニ至迄諸民ノ苦役不一形不愍ニ被思食候、依テ今般金五千両下賜候事

 次にこの役に関する彼我の記録を記して見る。
復古記(太政官記録)
慶応四年(一八六八)五月二日
賊兵大田原城ヲ襲フ 藩兵防戦利アラズ
退テ城後ノ険要ニ拠ル 賊敢テ逼ラズ 兵ヲ収メテ日光口ニ退ク
戦争節録(大田原鉎丸―勝清―家記)
我城内去二日三斗小屋口ヨリ賊軍押出領内横林村襲来候未ノ上刻同所ヨリ報知御座候ニ付兼テ通筋石林村手前ヘ人数六十人余繰出置警衛罷在候処 俄ニ賊軍千人余之人数襲来候間不敗敢同所人数ニテ大小炮打合猶又城内ヨリ追々繰出尽力防戦仕候得共相用候小銃和筒ニ折節大雨中最初ハ何レカ砲撃防拒仕候得共追々銃口雨水湿入弾薬ヘ火移兼急遽ノ場合如何共手廻り兼尤炮戦ニテ賊兵五六人打取家来共ノ内ニテモ所々於テ即死使番大田原鉄之進、戦士久島総太郎、早川雄太郎一栗田左次右エ門、銃隊卒長岡傅四郎、森半兵衛、長岡彦右エ門、手負使番平野鐐之助、大砲方斉藤邦之允、内山藤五郎、銃隊卒薄井傅兵衛、之者有之何分賊軍多人数諸方ヘ分兵一時ニ鏖戦之模様少人数難支同所引揚大手口暫時拒戦仕然ル処倍々大雨ニテ砲発不叶右ニ乗シ賊兵市中所々ヘ放火郭内打入士屋敷弐拾軒余放火本丸ヘ廻リ候間総軍本城ヘ繰入一二郭ニテ一統尽力砲撃仕候処何分少防戦不行届一ノ郭迄打入候ニ付二ノ郭、本丸郭ヘ兼テ据置候狭間筒ニテ賊軍隊長ニモ可有之床木ニ掛リ軍扇ニテ指揮仕候士一人打留其外戦士体之者十人程モ打斃候間一人首級打取候得共賊軍多人数聊退去不仕追々相迫励敷砲撃仕防拒断絶無余儀郭内作事小屋ヘ手勢之内ヨリ放火仕攻口取押置城中司令使勢差置一旦総勢城地裏寅卯之方中田原山引揚賊軍挙動ニ寄再戦夜軍ノ用意罷在候処及黄昏ニ賊軍退去仕前書襲来候道筋石林村ヘ夜四ツ時頃放火仕不残退散仕候右ニ付白川宇都宮両所官軍御人数先ヘ重役罷出御注進御援兵之儀願上候得共賊軍共ノ儀ハ即夜引払候間中田原山引揚候人数同夜城内ヘ繰入厳重警邏罷在候
 其後賊徒進退挙動テ今相分不申候得共何時襲来之程モ難計奉存候 此段御届申上候以上
 五月七日                  大田原鉎丸
慶応兵謀秘略(会津側記事)
五月朔日(二日の誤り)大田原口出張ノ第一番隊大炮隊回天隊会藩原田主馬之助隊保科弾正忠脱藩森要三隊朝大田原城ヲ攻メ板室敗走ヲススカント早天百村ヲ出張シ十町余リ進ム百姓走来テ敵急々ニ襲来ルト注進ス依テ之カ備ヲ為シ探索シ差出シ虚実ヲ探ルノ処大田原城ヨリ十町余離レ胸壁ヲ築立之ヲ守ル由ニ付キ兵隊ヲ二手ニ分ケ其一隊ハ那須野ケ原ヲサシ進発ス基二隊ナル者ハ関谷村ヨリ進発シ四里ノ行程ヲ急走シテ城下ニ至リ両口ヨリサシセマリシ処敵防戦弥固ク須叟ノ戦我レ大炮ヲ以テ彼胸壁ヲ撃ツ進討シ胸壁ノ下ニ至ル敵弾丸ニ被討死者不知数敵終ニ退ク城中ニ入ル進討二ノ丸ニ入リ以之ヲ放火シ内外戦ヒ争フ敵ハ窮兵之事故味方是ニ押セマリ空シク兵卒ヲ殺シ彼ノ一城ヲ取トモ元ヨリ彼ノ城ハ奥州押ノ城ユヘ南道ヨリ攻ル時ハ暫時ノ間ニ攻落ルベシ先城外ヲ放火シ彼ノ寄ル所ヲ払再ヒ策ヲ以攻メ取ルベシ、アナカチニ士卒ヲ損シ戦ヒ勝ハ勝ノ下ナル者也、毎ニハ大風雨車軸ヲ折カ如シ議再攻ニ決ス因テ生捕分捕ノ金穀器械ヲ馬ニ付再ヒ関谷村ヘ引揚宿陣ス此日関谷邑味方動静ヲ探ル者有リテ探索ヲ出シテ探ルノ処山家ヘ火ヲ掛ケ立去ルニ付兵卒出テ火ヲ消シ此夜哨兵出シテ宿陣ス、翌二日(三日ノ誤)関谷村出立塩原村ヘ引揚ク

 この記事中「板室敗走ヲススカント」とはこれより前四月二十一~二日の両日会津兵百余名板室、油井方面に屯集しているのを大田原藩が偵知し、薩、長、大垣諸藩兵と共にこれを撃壊したのに対する復仇(きゅう)である。
 この役わが方の敗戦は彼我戦闘力の大なる相違に基づく。まず兵員は彼の千余人に対し我は十分の一の百余人、武器は彼は精巧なる新式銃、我は旧式の火繩銃、しかも当日豪雨のためそれさえ用いることができず、しかも彼は百戦練磨の兵、我は戦いの経験少なく、ために勝敗の数は初めよりわかっていたといってもよい。
 なお大田原藩にとって不運だったことは、当時大抵の日は奥州進軍の西軍に属した何れかの藩兵が大田原に宿営していたのに、この時に限り宿営兵もなく、かつ大田原藩兵自身芦野に出陣中、急報により引き返すという有様であった。
 なおこれら幕兵の大田原襲撃は真岡代官山内源七郎の手引きによるともいわれる。
 五月十六日氏家駅に駐在した朝廷軍は、附近を徘徊していた異風の武士数人を捕え、これをといただしたところ、徳川旗本の脱走兵であり、去る五月二日大田原襲撃の際、百村附近の農民数十人を徴集して戦いに参加、戦後塩原に走り、更に幕領において軍資金を募るため、氏家駅に出できたことを自白したのでこれを宇都宮藩に引きわたし、更に真岡代官山内源七郎はこれらの脱走兵を援けて、金や穀物を給していたことがわかり、そこで宇都宮に滞陣中の土州兵は、翌十七日朝六時真岡に向い、陣屋を包囲して源七郎以下手附、手代などことごとくとらえ、市中においてひねり殺した。