戊辰戦争は、慶応四年(一八六八)一月三日の鳥羽・伏見の戦から、明治二年(一八六九)五月十八日の箱館五稜郭の戦で榎本武揚(幕臣海軍副総裁、のち文相、外相、農商務相等)らが投降するまでの討幕軍(西軍)と旧幕府軍(東軍)との戦である。
戊辰戦争と大田原藩については「大田原城の攻防戦(五月二日)」。「片府田村の戦闘(九月二十七日)」などについて記されたものは多少見受けるが、こと「会津若松攻城戦」についてはあまり知らされていないし、また資料も数少ない。小藩の大田原兵が大中藩の兵に劣ることなく活躍したあとを追ってみることとする。
野州での戊辰戦争も、宇都宮城奪回に成功した西軍は、奥羽の関門白河城(二本松藩管轄)攻略に、東山道総督府白河口総督参謀伊地知正治(薩摩)板垣退助(土佐)軍監中村半次郎(薩摩、のちの桐野利秋)以下諸将等が大田原城を軍事拠点として白河城を占領、戦略的に重要な意味をもつ白河城の攻防に、薩藩二番隊長大山弥助(巌)らが死守し、白河口各道の西軍は大挙して会津若松城(松平容保)を攻略しようと前進を開始、石筵口の母成峠(郡山市)を衝いた。日光口へは軍監中村半次郎が宇都宮兵を加えて藤原(高徳藩領、宇都宮藩支封)より一挙に会津領内になだれ込もうと、戦域が展開されていたころである。
写真4 会津若松鶴ヶ城
写真5 会津大内部落の家並
大田原藩兵進撃図
東軍の中に美濃郡上藩(岐阜、青山幸宜)凌霜隊と名乗る毛色の変った一隊があった。朝比奈茂吉(十七才)を隊長に、四十七士に因んで総勢四十七人、軍備完全な精鋭部隊である。この一隊は会津西街道の側面を防衛して、大田原方面から塩原へ入る西軍を防ぎ、いざという時には上三依に出、日光口から北進してくる西軍の横腹を衝くという遊撃隊で大鳥圭介(幕臣、歩兵奉行)から特別の任務をいいつけられ、五月十一日から三ヶ月も塩原温泉福渡・古町(高徳藩領、宇都宮藩支封)に駐屯していた。
八月二十日、 会津藩遊撃隊長塩原方面指揮官小山田伝四郎、組頭黒河内左刀らは、塩原の焼払を陵霜隊に命じた。これは会津若松城がまさに襲われそうになったので、日光口守備隊に早く本城守備に引きあげさせようとする命令がくだったからである。凌霜隊らは八月二十一日早朝から数巻、新湯の順で火をつけ二十三日には塩原から上三依(会津藩領)へ出、横川(会津藩領)へと後退した。
「関谷附近が荒される」の報は、大田原藩記でも塩原屯集の賊の仕業としているが、誰かは明らかでない。凌霜隊始末記にも記されてはいない。考えるに幕軍脱走のゴロツキゲリラ兵の仕業ではなかったろうか。
凌霜隊は会津軍の命令によって退去に際し全村四百戸の塩原を焼いたが、格天井に菊花紋章のある妙雲寺だけは残した。
八月二十二日、 大田原藩では、物頭権田峰蔵指揮の一番隊六十余名を先発させた。石林(大田原藩領)高柳(代官支配所)接骨木(大田原藩領)横林(大田原藩領)を経由関谷へ。つづいて同夜二番隊百余名総指揮家老大田原数馬等が自衛のため出兵した。
同日、白河の西軍、館林、黒羽兵三斗小屋に出陣、藤原口東軍山川隊一部を率いて若松に帰る。白河の西軍勢至堂峠に向い前進、母成峠の西軍猪苗代に進み、一部は十六橋を占領する。
八月二十三日、関谷村から塩原へ前進した大田原兵は、塩原村がすでに東軍によって焼き払われ、東軍の後退後であったのでいったん関谷村に引きあげ兵を休めた。
同日、戸ノ口原の戦い、西軍各所の東軍を破り会津城下に達した。館林、黒羽兵小谷、那須湯本、三斗小屋に達した。
八月二十四日、 大田原藩一番隊は早朝塩原守備に出兵。家老大田原数馬以下二番隊は同夜大田原に帰城。
同日、三斗小屋の西軍大峠を占領。
かねてから白河口参謀伊地知正治より「塩原の凌霜隊を駆逐して藤原口の会津西街道を若松に向って前進すべし。」の命令があり、大田原藩兵も会津戊辰戦争に参加することとなり、二十五日、 会津攻略大田原藩兵総指揮官番頭阿久津新五郎、物頭阿久津丈右エ門、御使番阿久津蔵人、戦士組頭兼戦士小川源太左エ門、横田健太郎、遅沢数右エ門、同銀太郎、松本文之進、滝田元太郎、嚮導森之助、印南包衛、大砲奉行原田半蔵、戦士武田彦太郎、長柄奉行落合蔵主、金穀方渡辺彦之助、兵粮方江連半之助、医師宇野良貞、北条亮釆外百余人が塩原へ発進した。
同日、勢至堂口西軍若松に進出、藤原口西軍横川の東軍に撃退される。
八月二十六日、 早朝藤原口方面の探索池沢兵助の報告により西軍の横川進行をキャッチした塩原駐屯の大田原藩兵、物頭権田峰蔵、軍師野村若衛、戦士河野育三郎、落合庄十郎、北条辰太郎、青木庄助、田口鉄三郎、大砲奉行内山伊織、教導渡辺渡、内山藤五郎、落合茂十郎ら塩原門前より上塩原、尾頭峠より間道を通り横川の東軍の後を攻撃せんと夕方横川入口に出。横川を見下す地点より東軍の様子を見る。同夜山中に野陣。
同日、三斗小屋の西軍、中峠、野際村の東軍を破る。若松城下の西軍小田山に砲兵を置き、天守閣に砲撃を開始する。
八月二十七日、 天皇即位、藤原口西軍休戦のため、大田原兵の権田峰蔵、池沢兵助、北条辰三郎外十五名で東軍の陣地を攻めたが、弾薬つき突破できず止むなく友軍の来着を待つためいったん上塩原に退いた。
八月二十八日、 大田原兵、増援兵と合兵、総隊長番頭阿久津新五郎指揮下三小隊が再び間道より横川へ出兵。御使番阿久津蔵人、添士池沢兵助ら屋頭峠を越えて三依村へ出、横川方面在陣芸州本営隊長二川主税へ大田原兵の合兵を申し入れる。
これより先、三依村駐屯の芸兵(広島、浅野長勲)は、宇都宮兵の増援を得て再度横川の東軍を攻撃した。宇都宮兵は正面攻撃、芸兵は両側の山上より攻撃してこれを破る。
間道よりの大田原兵横川に出、芸、宇都宮兵と合流、芸兵の指揮下に入る。西軍の一部は前進して山王峠(国境)を越え糸沢に宿営。大田原兵は横川に野陣す。東軍田島に退却。
八月二十九日、 横川、糸沢に宿営した芸(六百人)、大田原(三小隊)、宇都宮(八小隊)兵が早朝出発して東軍の抵抗を受けることなく田島に入る。田島は会津領内、町家が多く野州との国境山王峠に二十キロメートル南にある会津藩前線陣地の重要地点である。宇都宮兵は高野村(田島町)に東軍ありとの報を得て散開して攻撃に移る。この日肥前兵(鍋島藩)田島に追及して宿営する。軍監中村半次郎も田島に到着する。
八月三十日、 早朝、宇都宮兵を先頭に、芸、大田原、肥前兵の順序で大内村(下郷町)(前進、先陣の宇都宮兵が倉谷、桜山、沼山(いづれも下郷町)に前進した時、突然敵襲にあい、激烈な戦闘が開始された。後続の芸、大田原兵も増援のため急いで前進したが、宇都宮兵が散開して入る余地がない。芸(西ノ山)、大田原兵(東ノ山)は両側の山に登り、横撃を開始、このため東軍は動揺して退却を始めた。
大田原藩報「横撃仕り候処賊兵暫時も支え得ず土崩の勢をなし敗走仕り」とあり、この側面攻撃はかなりの効果があったものと思われる。西軍追撃して大内村に入り、占領して宿営した。この日の戦で宇都宮兵戦死四、傷七、芸、大田原兵死傷なし。肥前兵は後続のため参戦していない。守る東軍は小山田支隊と凌霜隊でその死傷は未詳である。
(大内村は、会津若松から奥州道中に通ずる南山通り又は会津西街道とも呼ばれる会津と関東とを結ぶ重要な街道の宿場であった。会津藩主初期の参勤交代の際にもこの宿場を宿所としている。又年数万俵にのぼる廻米も運ばせて馬継場の役割も果してきた。会津戊辰戦役には最後の防禦線として早くから会津軍の前線基地であった。東軍後退の際には焼払いに逢うところであったが、言い伝えによれば、当時の名主阿部大五郎の死を覚悟しての抵抗によってまぬかれたといわれている。大内は物資の徴達や人夫の徴発によって大きな痛手を受けたが、焼き払いに逢わず今日まで宿場としての姿を残し得たのも村人達の努力によるものと思われる。老人の言によれば、当時物資の徴達品中に丈夫なワラジの要求があったという。村人達は相談の結果村に古くから伝わる古文書を一枚一枚丁寧にほぐしてワラの中に入れワラジを作って提供したと言われている。この計いによって村は救われたとも言う。しかし村の記録は口碑にのみ伝えられたと言われている。)
九月一日、 大内村から四キロメートルの大内峠の東軍を攻撃、先陣は肥前、芸、大田原、宇都宮兵の順序で早朝大内を出発、大内峠での壮烈な攻防戦が展開された。
先陣肥前大内峠麓に前進、東軍の発砲により戦闘が開始される。芸、大田原、宇都宮兵は側面攻撃をおこなうために西ノ山に登る。芸兵の一小隊東軍の本営に突入、このため東軍破れる。若松城下を見下す地点に野陣する。
大田原藩報には「賊兵死傷六十余」とある。大田原兵死傷なし、戦死肥前四、宇都宮五、芸二、負傷肥前十六、宇都宮十一、芸五であった。東軍関山村(本郷町)まで後退する。
西軍は大内村に集結して軍監中村半次郎主催の軍議が開かれ九月二日も攻撃続行と決する。
この日の戦で凌霜隊矢野原与七は「心苦雑記」に「大内峠破れしは、全く峠の間道への人数不足故也、これへの人数配らざるは総督の小山田氏の不さく也。此人後を不構真先へ進みたるゆえ峠の本陣は誠に無人と也、総督の身分にて後の押勢にも不構、先へ進むは勇のように見ゆれども不策也。此道堅固ならば斯様の瓦解せぬものと、一同残念に思う」と記してきびしく批判している。
九月二日、 早朝先陣芸、大田原兵は本道、第二陣肥前兵は東ノ山峰通り、第三陣宇都宮兵は西ノ山通りを大内、火玉(氷玉)両峠を経て、栃沢(本郷町)に向う。先鋒の芸、大田原兵さぐりを撃ち込みながら前進。東軍栃沢村手前より発砲、これにより戦闘が開始され、肥前、宇都宮両兵両側の峰より側面攻撃して激戦が展開された。東軍栃沢村に火をかけて敗走。西軍追撃して関山附近に達したが、東軍の防戦よく西軍は攻撃を中止して関山より後退して火玉峠に野陣する。東軍は追撃して栃沢を占領、反撃に出た東軍は火玉峠に夜襲を敢行。夜半西軍は大内峠まで後退する。
大田原兵は隊長阿久津新五郎、戦士河野育三郎、渡辺渡、北条朔太郎らよく兵をまとめて、宇都宮兵隊長初め二小隊と野陣す。
この日西軍大内村出発後 中津(豊前下毛奥平藩)今治(伊予越智久松藩)人吉(肥後球麻相良藩)兵と蔭摩の加治木隊、宇都宮増援兵二隊、三斗小屋口の黒羽、館林兵が参加兵力が増強される。
この日の戦で戦死芸三、肥前二、宇都宮二、負傷芸十二、肥前一、宇都宮三、東軍死傷なし。この戦闘西軍の敗北に終る。
九月三日、 後続の薩、黒羽、館林、宇都宮、中津、今治、人吉、肥前一小隊は関山へ攻撃前進。芸、大田原、肥前、宇都兵の主力は大内村において休養。この日西軍より攻撃をかけたが勝敗つかず薄暮により戦闘中止となる。
九月四日、 大内村にあった芸、大田原、肥前、宇都宮の主力兵は早朝大内村を出発、北進して第一戦部隊と合流、引き続き前進追撃して本郷附近に達した。本郷村(本郷町)は会津若松から七キロメートルの地点である。
大田原兵は本郷に宿営。肥、芸兵は大八郷村(本郷町)に宿営した。この日戦死宇都宮一、薩摩一、黒羽二、負傷宇都宮三、黒羽三、中津二、人吉一薩摩十四、肥前二、館林四、東軍未詳。
九月五日、 薩州軍監中村半次郎より、若松進軍につき先鋒は何々藩ということなく、各藩より二十名宛選兵して先鋒第一陣とし、全西軍大川を渡河。この日深霧にて十メートル先目えず、各藩隊長は土地不案内の上、深霧のため渡河をためらっていたが、軍監中村半次郎より先鋒隊はぜひ渡河せよとの命令により、東軍の発砲を受けながら渡河、つづいて各藩全西軍早朝、大川を渡河する。さらに前進して飯寺から会津若松城下材木町西側に集結した。東軍はこれに対して会津総督佐川官兵衛の指揮による反撃に出た。柳原、片柳町から田中、野中隊(会津)が西軍の横腹を、材木町秀長寺から佐川隊、西軍の背後からは高田方面より来た別選隊の不意の三面包囲攻撃を受ける。西軍は各兵思い思いに抗戦、応戦して敵を破り、幕の内、深川を占領。
この日の白兵戦において戦死薩、芸、肥各一、黒羽、館林各四、負傷兵芸八、黒羽六、館林四、肥一宇都宮、人吉各三、大田原二、を出した。東軍死傷者なし。この戦闘で西軍は小荷駄を分捕られ、弾薬、予備兵器、衣服、食糧等を失った。現金は戊辰戦争のうちでもっとも多額を失ったと言われる。
大田原藩小荷駄隊長池沢兵助は、「参謀より芸州に人数引上け候様差図有之、芸州並に大田原の御人数半途迄引上る、続いて各藩の人数引上く、その時黒羽にて大炮二挺分捕にあう。薩州軍監芸州隊長に申聞候ハ仮令参謀の下知かもせよ身方の苦戦を見て兵を引上くる事可有哉と甚た立腹す、今日河原口の戦争苦戦にて吾藩の軍夫不残逃げる。…………
芸州御家(大田原)御両家の人数五百余人の賄に白米三斗きり無之如可仕らんと一統心配罷在候処夜五ツ時過に、落合蔵主組子白米三俵田の中にて見付以之両家の兵粮を賄う」と記している。
黒羽隊長五乙女三佐衛門は「この日各藩策謀粗略にして軍列整わず、故に輜重 兵食 弾薬 予備の大砲等賊の為に奪はる」と記している。
「芸州、肥前は深川、大田原その他の小藩合して幕の内村へ、黒羽、宇都宮 中津 今治 館林 薩州の諸敵は飯寺より十七、八町計り在の村落へ宿陣」と会津側の記録。
日光口軍は辛うじて白河口軍と連絡す。
九月六日、 薩、肥前、宇都宮、人吉の四藩兵は本郷附近の敵を掃蕩、本郷に集結していた諸藩の小荷駄隊を掩護。
城下では柳原附近で小戦闘がくり返された。
同夜の各藩の守備位置は次のとおり、
深川 芸、肥前兵
幕の内 大田原 人吉兵
飯寺 本部 薩 黒羽 宇都宮 館林 中津 今治兵
九月七日、 本郷方面の薩 肥前、宇都宮、人吉の四藩兵は小荷駄隊を掩護して飯寺へ入り、それぞれの守備位置につく。日光口軍白河口軍と合流、その命令下に入る。
九月八日、 慶応を明治と改元される。
薩、黒羽、宇都宮、館林、中津、今治の六藩兵飯寺附近で戦闘東軍を撃退する。この戦で東軍の援兵に来た長岡藩(越後古志)の山本帯刀(家老、山本五十六元師の養父)以下三十余名捕虜となる。
一方会津若松城内では篭城に耐えるために、日光口軍の後方を脅かし小荷駄を奪取しようと佐川官兵衛のひきいる一隊約五百名、早朝若松城を出発して南下した。佐川隊は大内、倉谷の西軍の兵站集積所を占領さらに南下して田島に達し田島を奪還した。
時九月九日、 この日大田原藩小荷駄隊が激突多大な戦死者と膨大な物資を失った。戦死者は次のとおり、
士 宇野良真藤原良定(軍医、大田原住)
士 江連半之助藤原一政(輜重隊 大田原住)
卒 蒲原健次郎藤原元治(銃隊 大田原住)
卒 渡辺又治郎源正則 (銃隊 大田原住)
夫卒 江連重五郎 (宇都野村住)
夫卒 津久井作蔵 (宇都野村住)
夫卒 東泉四郎左衛門 (宇都野村住)
夫卒 熊久保伝右衛門 (上横林村住)
夫卒 菊地孫右衛門 (上横林村住)
夫卒 住川酉之助 (大田原住)
(大田原護国神社の招忠魂碑)
負傷者九名、大田原藩が戊辰戦争を通して十名からなる戦死者をだしたのはこの戦闘の時だけである。この結果、後日田島を根拠としたゲリラ部隊が再び大峠を越えて三斗小屋を再占領、掠奪と焼き払いが行われることとなる。
九月十日、 越後口軍の一部若松攻囲の西軍に到着。指揮官は次のとおり。
越後口総督府
軍務官参謀 吉井幸輔(薩摩、枢密顧問官)
参謀 山形有朋(長州、元師)
参謀 前原一誠(長州、兵部大輔)
軍監 岩村高俊(高知、佐賀県令)
西軍伊地知参謀以下軍議の結果九月十三日を期して総攻撃を行うことに決した。攻撃命令は次のとおり。
九月十二日 会津在陣参謀
各藩隊長衆
一、明十三日、天気次第城攻めに付八字(時)揃のこと。
一、日光口人数内より三百ぐらい河原口まで出張、ただし夫より進撃無用。
一、諏訪社の跡は大垣、長州より取巻き砲致し候筈。
一、砲発は山上の砲声相図に打出候筈。ただし大砲壱挺に付、弾薬五十発づつ。
(戊辰戦役史)
西軍の総攻撃は十三日雨天のため順廷され、翌十四日をもって実施された。
会津若松城下に集結した西軍の兵力
肥前、大村、小倉、久留米、熊本、人吉、佐土原、薩摩、鍋島、今治、土佐、長州、岩国、芸州、備州、因州紀州、津 淀、彦根、大垣、尾州、中津、越前、加賀、松本、松代、飯山、高田、新発田、館林、宇都宮、大田原、水戸、黒羽、米沢をはじめ七十余藩、約五万人、砲百五十門。
東軍は、会津藩を主力に、旧幕軍と凌霜隊、幕府脱走兵によって組織された抗戦部隊貫義隊、草風隊、伝習隊その他各藩脱走の小部隊の数百人を加えて三千人、これに加えて老幼の男女約二千人、砲五十門。
会津若松鶴ケ城
包囲攻防図
九月十四日、 午前八時小田山砲兵の砲撃を合図に総攻撃開始。
融通寺口 肥前、人吉 薩摩(隊号不詳)
河原口 安芸 大田原 宇都宮 黒羽 薩摩(隊号不詳)
花畑口 館林 薩摩(隊号不詳)
石坂観音附近 薩摩四番隊 中津 今治
北の甲賀町口 東の天寧寺口と各方面から いっせいにはじめられ、夜まで続く。
大田原兵らは前進して河原口の外郭を占領した。この日の戦闘で西軍日光口軍は戦死十七、負傷三十六、大田原兵負傷一、黒羽兵戦死二、宇都宮兵戦死三、負傷三、
九月十五日、 西軍若松城外の敵を攻撃したが成功しなかった。
九月十六日、 「脱賊数百人出三斗小屋以、有放火剽掠」との報告が会津在陣の参謀にとどく。田島を根拠にしたゲリラ部隊が三斗小屋に策動したものか。伊地知参謀は九月十七日に大田原藩兵、十九日には黒羽藩兵に、若松城下を引き揚げて領内の警備につくよう帰国命令をくだした。大田原兵は、十八日に薩兵と交代日光口道筋はすでに東軍遊撃隊によって占領されているので、若松、勢至堂、白河の会津本道すなわち白河道を経て九月二十一日出兵以来一ケ月ぶりで大田原に帰城した。(藩記)
一方会津若松に於ては、九月十七日若松攻城軍は一の堰を討ち若松城を完全包囲。
九月二十日には若松篭城軍降意を表し。
九月二十二日には会津藩主松平容保城を出て降礼をとる。ついに落城。
大田原藩では帰国後、田島の残敵、三斗小屋集結の会津脱出の水戸脱走兵、旧幕諸隊らが脱走方向を水戸方面と判断し、領内通過が考えられるので領内の警戒配備についた。
九月二十七日、 田島の残敵水戸方面に敗走中のものを、大田原、黒羽藩では彦根藩、阿波藩の応援を得てこれを片府田、佐良土に破る。この片府田、佐良土の戦闘で野州での戊辰戦争大田原藩の会津戊辰戦争も終止符をうつ。
明治元年(一八六八)十月二十三日 佐久山宿において白河口総督正親町公董(きんたた)中将より会津追討の尽力により感状を受く。
明治二年(一八六九)六月二日 戊辰戦争における論功行賞により一時金五千両が下賜された。
《参考資料》
阿久津モト所有文書 大田原市新富町一丁目
阿久津儀衛(新五郎)墓碑 大田原光真寺
戊辰役戦史 大山柏
鶴ケ城を落すな(凌霜隊始末記) 藤田清雄
会津の歴史 会津若松市出版会
甘露山妙雲寺小史
鶴ケ城 会津若松観光協会編
大内の宿 大内宿場集落保存会
招忠魂碑 大田原護国神社
明治百年野州外史 下野新聞社
日本歴史 岩波講座
増補 那須郡誌 渡辺金助
その他、
阿久津モト所有文書 大田原市新富町一丁目
阿久津儀衛(新五郎)墓碑 大田原光真寺
戊辰役戦史 大山柏
鶴ケ城を落すな(凌霜隊始末記) 藤田清雄
会津の歴史 会津若松市出版会
甘露山妙雲寺小史
鶴ケ城 会津若松観光協会編
大内の宿 大内宿場集落保存会
招忠魂碑 大田原護国神社
明治百年野州外史 下野新聞社
日本歴史 岩波講座
増補 那須郡誌 渡辺金助
その他、
大田原藩兵肩印
大田原藩兵袖印