九月十八日会津西口より引揚げて帰藩し、附近の警備に当っていた大田原藩にこの情報が達したのは慶応四年(一八六八)九月二十六日で、その夜百村に宿泊した水戸、長岡両藩兵千九百余名大田原城を襲うやも知れぬとのことであった。
驚いた大田原藩では当時奥州出陣の途次、光真寺に宿泊していた江州彦根藩隊に応援を求め、更に市内市野沢にあった四国阿波藩隊および黒羽藩にも応援を求めた。
百村に宿泊した水戸、長岡藩兵達は大田原領高林村に出て、それより同領上横林村を経て石上村に出でそれより箒川に沿って薄葉、平沢、滝沢、滝岡、小種島を経て九月二十七日夕刻、湯津上村片府田にいたり、そこの民家および寺(宝寿院)に宿泊した。
民家に宿泊した人数二百七十名、内上の部落に百名、下の部落には百七十名で、宝寿院には三十名が宿泊した。
これより先、大田原藩では、去る五月二日のように再び大田原城が襲われるやも知れずと考え城周辺の守備を厳重にし、彦根藩兵は城北部の丘陵(権現山)に砲を据え、来襲に備えた。
しかるにその後の情報は前記の通路を取ったことを知り、その夜の宿泊地が何れかを探った結果、片府田なることを偵知、翌早暁攻撃を決して準備を整えた。
まず大田原、彦根、阿波三藩は彼らの背後を襲い、黒羽藩兵は佐良土方面において退路を扼し殲滅戦略を策した。
九月二十七日早暁大田原、彦根、阿波の三藩兵は、密に平林、刈切、大和久を経てそれより丘陵上の間道を通り、片府田村の北部二階林に朝四時五十分頃着、大田原藩士池沢兵助は南部落を偵察したところ、そこに敵の姿を認め、直ちに引き返して本隊に報じた。
報を受けた本隊は直ちに行動開始、当時いまだ水を引き入れずにあった現在の新宿、蛭田への蛇尾川揚水水路の空濠に入り、元の諏訪神社前火の見前方の敵本隊に向って銃口を開いた。日出前三十分である。
まさに朝食を喫しょうとしていた彼らは大いに狼狙したが、百戦練磨された者共、直ちに陣形を立てて応戦、激戦となった。この片府田民家部落攻撃に当ったのは大田原藩兵と彦根藩兵の混合部隊であり、また宝寿院宿泊兵攻撃には彦根藩の一部隊が当った。阿波藩兵は銃撃するのみで前方には出て戦うことをしなかった。
戦は遂に白兵戦となったが、初期不意を衝かれた水戸、長岡勢は戦況不利と見て戦うこと約二時間、散を乱して佐良土方面に向かって遁走した。
この役、味方勢は約五百名、内大田原勢百名、彦根勢三百名、阿波勢百名、敵方は三百名であり、戦死者味方五名、内大田原藩士一名(軍監阿久津又次郎)、彦根藩士四名、敵方は宝寿院境内にて四名、長屋門前一名、稲荷社前一名、大銀杏根元二名、西の部落にて一名の計五名、何れも死体を遺棄して遁れ去った。
また負傷者は大田原藩士三名、彦根藩士一名阿波藩は一人の負傷者も出さず、しかも戦途中で傍観者的立場をとり、大田原、彦根両藩兵は更に佐良土方面に向かって追撃したが、阿波藩はこのところより引揚げてしまった。
戦況附図は当時十三歳であった鈴木トウ氏(昭和十六年五月三十日死亡八十五才)(片府田村鈴木清一氏母)より、昭和十一年氏家町桑嶋陸田氏が、当時の状況を聞き作製した戦況図を基に、更に岩瀬氏が調査し作製したものである。
片府田の戦 略図
これによると阿久津又次郎は宝寿院前、田んぼの中で両刀を使って敵兵と切合い敵兵数人を殺傷したが、遂に敵創を受けたおれたとしているが、墓碑銘には敵の銃弾によってたおれたと記されている。鈴木トウ氏の話は、あるいは彦根藩士であったやも知れぬ。
佐良土方面に遁走した敵兵は、途中黒羽藩兵の待ち伏せあるを察知し、これを避けて馬頭方面に遁れ去った。
又敵方の本部となった大久保氏は矢倉に遁れて暫らく身をかくしたが、その家は大田原方によって焼かれてしまった。
このところで戦死した水戸、長岡兵(所属不詳)達の遺骸は宝寿院墓地に葬られたが、その後弔うものもなく、無縁仏となっていたのを、片府田村中の女人達これを哀れみ、明治二十一年(一八八八)九月二十七日、その供養搭を建て今も宝寿院墓地に現存している。(写真6)
写真6
湯津上村片府田の宝寿院墓地にある片府田村女人講中によって建てられた西軍戦死者供養塔
戦死供養搭
明治元年戊辰九月二十七日戦死
明治二十一年九月二十七日建之
村女人中
人見傅蔵氏稿には片府田戦を次のように記している。
片府田の役
戊辰九月東軍の数隊は高田を本拠とし、遙に若松城と相声援し、南は小松、松ノ岸等に保塁を築きて、海老山、胄村等の西軍と相対時し、北は赤留村に胸壁を築きて、八木沢及雀林、逆瀬川等の西軍に備え、守備を厳にして相俟つ。己にして十六日八十里越口の西軍仁王村より永井野に迫らんとす、報あり、佐川官兵衛永井野に陣し、長岡藩隊長能勢三左衛門来りて佐川隊に応援せし、水戸の市川隊等はその西軍に水戸天狗組一隊あるを探知し、必ず之と雌雄を決せんと欲し奔走最も力む。初め市川、朝比奈等永井野の戦、官軍の死傷中に天狗組の表印あるを発見し、以為らく「今や故国に兵寡なきは必然なるべし、密に水戸城を奪い、君主を擁して積年の恨を報せん」と長岡藩兵を誘引して援となす。十八日高田敗戦の後決意疾走し、廿一日共に那須郡に出づ。
廿五日三斗小屋、板室を経て百村に泊す。廿六日賊兵千九百五十人、大田原領高林村に出で、将に大田原城に迫らんとするもの如し。という報告頻々として城中に達す。是に於て諸士を城中に会し、戦争の策を議す。会々彦藩兵三小隊、奥羽進軍の途次光真寺に滞陣せるを以て、応援のことを申入れしに、彦藩兵は之を諾し直に石林に進み山上に権現炮を据え賊の来襲に備う。而して城の内外要所には戦士をして守らせしめ、御使番阿久津又次郎をして城下に備えしむ。
唯今御領分高林村江賊軍多く数襲い来り候に付ては戦争に相成候も難計候間面々立退の用意致候様既にして賊兵は高林村より、上横林村にかかり、原通りで下石上村に宿泊すとの報告ありしかば、石林口を守る彦根藩兵は荒町口に引揚ぐ。而してこの時また奥羽進軍中の阿波藩兵六十人は市野沢村に於て急報を得、その夜大田原に踵を返す。又黒羽藩兵六小隊もまた応援に来合せしかば、四藩合議の上、今夜九ツ時下石上に夜襲を計るを決したる処、夜物見の者立帰りて曰く「賊兵松明をともして、夕食後薄葉村より滝沢村にかかり、小種島方面に去れり」と注進す。
依て軍議を変更し、我藩兵並に彦根二藩は之を追い、黒羽兵は佐良土に向いて激撃することとなり、阿彦二藩兵は阿藩の一隊を巡邏に任じて之に次ぎ捷路を取って片府田村に進み、賊を要撃せんとす。時に賊兵は村中の民家に入りて、朝餐を喫す。我兵賊兵の不慮に出て銃を発って之に迫りしかば、賊兵頗る狼狽す。然れども彼等は大小幾十の実戦に慣れたる古つは者なれば、操従進退巧妙を極め殊死して戦う。我兵また皆銃を捨てて短兵を以て相接して力戦す。然れども我は不便の地にありて甚だ苦戦せり。
此時御使番軍監阿久津又次郎、身を挺んで刀を揮て奮闘せしが、賊兵の狙撃する所となり、その胸間を貫かれて戦死す。又次郎諱忠順、澄淵と号した。大参事忠義の嫡男なり。稟性頴敏気節あり、幼時金枝健に従学す。嘗て小学を講ずるを聴き、忠孝節義の迹に至り、慨然として奮励の色、眉宇の間に顕はる、その父母に事ふる………。
この戦況は池沢兵助翁書留はよく当日の戦況を記録して目堵する如くである。
同廿七日暁に滝沢源太郎、池沢兵助教導にて追手口より平林村、刈切、大和久村台より、峰通し片府田村寺之脇林ト畑之際ニ出て人家を見る。林際より人家迄其間畑二十五間程有之、然る処に人家之前井戸脇に大小さし候もの一人立ち居候に付兵隊をふせ、池沢兵助人家の前迄罷越宅をのぞき候処、賊七人ろにふみ込居、尤人家のぬきへ抜身鎗を立掛ケ置候、夫より早馬ニ而本之場所ニ立帰り、隊長江申通る内ニ身方より発炮致候ニ付、賊七人にげ出ル、身方之戦士畑中江繰出賊七人を生取にせんとす。其内松本文之進賊一人を切死(殺)阿久津善次郎同一人切死(殺)其之内賊方ニ而畑中之土手之裏江人数を配り炮発、御家之御人数先鋒一番に進ミ候ニ付、敵味方之玉頭之上ニて行違其内敵身方入交り候ニ付、錦之印無之者目当に炮発、故ニ甚苦戦其間一時斗、身方之惣軍林之中江繰入敵は荒宿之方江引上ける。
とある。激戦の状が十分に窺える。賊兵佐良土方面に退却す。
黒羽藩は之を邀え撃ちその進路を断たんとせしが、賊兵之を避けて戦を欲せざるものの如く、那珂川を渡りて馬頭方面に遁走せり。
この役、我藩兵賊兵五人をたおす。而して我藩負傷者は物頭藤田六郎組印南小左衛門、大砲杉江市之進組小林房次郎なり。
彦根藩に於ける戦死は三浦十左衛隊西川本太郎、山口捨次郎、小塙喜平太隊宮川増弥、西沢与惣治の四名なり、負傷は中島与惣吉一人なり。阿波藩には死傷なかりき。片府田の戦の時、我が軍は余り進み過ぎて、敵と三間の道を挾んで対陣したが、落合さんは戦争に慣れているから、正面攻撃の不利なるを知り、河原に下りて敵の背後より攻撃した。然るに阿州藩ではこれを敵兵と誤認して落合さんの隊を射撃したから私(中津川嘉秀)一兵卒の身ではあるが、これを見かねて阿州の陣へ馳せつけて抗議を申込んだ。然るに阿州では兵卒よりかかる抗議を申込まるる謂はれはないとて大いに立腹しそれより後方に退陣して傍観していた。
敵兵が早く崩れたのは全く落合さんの攻撃が効を奏したのである。
かくて我兵並に彦藩は逃ぐるを追うて佐良土に到り、阿藩は片府田より引揚げたり。此時我藩の兵糧余分なきを以て、池沢兵助は蛭田村蜂巣伊蔵に命じて、米三斗一升を焚出さして食糧に宛てたり、有合わせ酒五升を彦根藩に贈る。
かくして凱施し、夕七ツ時城下に引揚ぐ。我藩兵は城内に入り、慰労の辞を賜い、一同へ酒を頂戴す。
戊辰九月東軍の数隊は高田を本拠とし、遙に若松城と相声援し、南は小松、松ノ岸等に保塁を築きて、海老山、胄村等の西軍と相対時し、北は赤留村に胸壁を築きて、八木沢及雀林、逆瀬川等の西軍に備え、守備を厳にして相俟つ。己にして十六日八十里越口の西軍仁王村より永井野に迫らんとす、報あり、佐川官兵衛永井野に陣し、長岡藩隊長能勢三左衛門来りて佐川隊に応援せし、水戸の市川隊等はその西軍に水戸天狗組一隊あるを探知し、必ず之と雌雄を決せんと欲し奔走最も力む。初め市川、朝比奈等永井野の戦、官軍の死傷中に天狗組の表印あるを発見し、以為らく「今や故国に兵寡なきは必然なるべし、密に水戸城を奪い、君主を擁して積年の恨を報せん」と長岡藩兵を誘引して援となす。十八日高田敗戦の後決意疾走し、廿一日共に那須郡に出づ。
廿五日三斗小屋、板室を経て百村に泊す。廿六日賊兵千九百五十人、大田原領高林村に出で、将に大田原城に迫らんとするもの如し。という報告頻々として城中に達す。是に於て諸士を城中に会し、戦争の策を議す。会々彦藩兵三小隊、奥羽進軍の途次光真寺に滞陣せるを以て、応援のことを申入れしに、彦藩兵は之を諾し直に石林に進み山上に権現炮を据え賊の来襲に備う。而して城の内外要所には戦士をして守らせしめ、御使番阿久津又次郎をして城下に備えしむ。
唯今御領分高林村江賊軍多く数襲い来り候に付ては戦争に相成候も難計候間面々立退の用意致候様既にして賊兵は高林村より、上横林村にかかり、原通りで下石上村に宿泊すとの報告ありしかば、石林口を守る彦根藩兵は荒町口に引揚ぐ。而してこの時また奥羽進軍中の阿波藩兵六十人は市野沢村に於て急報を得、その夜大田原に踵を返す。又黒羽藩兵六小隊もまた応援に来合せしかば、四藩合議の上、今夜九ツ時下石上に夜襲を計るを決したる処、夜物見の者立帰りて曰く「賊兵松明をともして、夕食後薄葉村より滝沢村にかかり、小種島方面に去れり」と注進す。
依て軍議を変更し、我藩兵並に彦根二藩は之を追い、黒羽兵は佐良土に向いて激撃することとなり、阿彦二藩兵は阿藩の一隊を巡邏に任じて之に次ぎ捷路を取って片府田村に進み、賊を要撃せんとす。時に賊兵は村中の民家に入りて、朝餐を喫す。我兵賊兵の不慮に出て銃を発って之に迫りしかば、賊兵頗る狼狽す。然れども彼等は大小幾十の実戦に慣れたる古つは者なれば、操従進退巧妙を極め殊死して戦う。我兵また皆銃を捨てて短兵を以て相接して力戦す。然れども我は不便の地にありて甚だ苦戦せり。
此時御使番軍監阿久津又次郎、身を挺んで刀を揮て奮闘せしが、賊兵の狙撃する所となり、その胸間を貫かれて戦死す。又次郎諱忠順、澄淵と号した。大参事忠義の嫡男なり。稟性頴敏気節あり、幼時金枝健に従学す。嘗て小学を講ずるを聴き、忠孝節義の迹に至り、慨然として奮励の色、眉宇の間に顕はる、その父母に事ふる………。
この戦況は池沢兵助翁書留はよく当日の戦況を記録して目堵する如くである。
同廿七日暁に滝沢源太郎、池沢兵助教導にて追手口より平林村、刈切、大和久村台より、峰通し片府田村寺之脇林ト畑之際ニ出て人家を見る。林際より人家迄其間畑二十五間程有之、然る処に人家之前井戸脇に大小さし候もの一人立ち居候に付兵隊をふせ、池沢兵助人家の前迄罷越宅をのぞき候処、賊七人ろにふみ込居、尤人家のぬきへ抜身鎗を立掛ケ置候、夫より早馬ニ而本之場所ニ立帰り、隊長江申通る内ニ身方より発炮致候ニ付、賊七人にげ出ル、身方之戦士畑中江繰出賊七人を生取にせんとす。其内松本文之進賊一人を切死(殺)阿久津善次郎同一人切死(殺)其之内賊方ニ而畑中之土手之裏江人数を配り炮発、御家之御人数先鋒一番に進ミ候ニ付、敵味方之玉頭之上ニて行違其内敵身方入交り候ニ付、錦之印無之者目当に炮発、故ニ甚苦戦其間一時斗、身方之惣軍林之中江繰入敵は荒宿之方江引上ける。
とある。激戦の状が十分に窺える。賊兵佐良土方面に退却す。
黒羽藩は之を邀え撃ちその進路を断たんとせしが、賊兵之を避けて戦を欲せざるものの如く、那珂川を渡りて馬頭方面に遁走せり。
この役、我藩兵賊兵五人をたおす。而して我藩負傷者は物頭藤田六郎組印南小左衛門、大砲杉江市之進組小林房次郎なり。
彦根藩に於ける戦死は三浦十左衛隊西川本太郎、山口捨次郎、小塙喜平太隊宮川増弥、西沢与惣治の四名なり、負傷は中島与惣吉一人なり。阿波藩には死傷なかりき。片府田の戦の時、我が軍は余り進み過ぎて、敵と三間の道を挾んで対陣したが、落合さんは戦争に慣れているから、正面攻撃の不利なるを知り、河原に下りて敵の背後より攻撃した。然るに阿州藩ではこれを敵兵と誤認して落合さんの隊を射撃したから私(中津川嘉秀)一兵卒の身ではあるが、これを見かねて阿州の陣へ馳せつけて抗議を申込んだ。然るに阿州では兵卒よりかかる抗議を申込まるる謂はれはないとて大いに立腹しそれより後方に退陣して傍観していた。
敵兵が早く崩れたのは全く落合さんの攻撃が効を奏したのである。
かくて我兵並に彦藩は逃ぐるを追うて佐良土に到り、阿藩は片府田より引揚げたり。此時我藩の兵糧余分なきを以て、池沢兵助は蛭田村蜂巣伊蔵に命じて、米三斗一升を焚出さして食糧に宛てたり、有合わせ酒五升を彦根藩に贈る。
かくして凱施し、夕七ツ時城下に引揚ぐ。我藩兵は城内に入り、慰労の辞を賜い、一同へ酒を頂戴す。
次に光真寺墓地に現存する阿久津又次郎の墳墓(官修墳墓)(写真7)の墓碑銘には次のように記されている。
写真7 官修墳墓(光真寺)
阿久津又次郎忠順の墓
阿久津忠順墓誌
事父母能竭其力、事君能致其 身。子夏氏、嘗難其人。夫、忠孝者、人人所由之路、自天子、以至庶人、莫不同然也。而能竭能致者、天下盖鮮矣。是、子夏、所以難其人之意也。本藩士阿久津又次郎、稟性頴敏、有気節。幼時従余学。余嘗講小学授生徒、又次郎亦与聞焉。毎聴忠孝節義之迹、慨然奮励、欽慕之情、顕於色。余常奇之。其平居、事父母、晨省昏定、以至凡百之使用、不憚労劬、怡顔承旨、一以愉親為念。及長、行益力焉。可謂能竭力矣。仕為側役、日夜尽心於職事。其保護幼主、至誠懇篤、雖游嬉戯謔之際、閑邪存誠、必以帰諸道為心、未嘗以主幼小、惰恭敬也。後兼戦士組頭、称頗得士心、明治紀元歳之戊辰、秋九月、奥羽、北越等之乱賊、勢蹙力索、皆納降於官軍。而餘党、散布於各所者、末悉平也。其二十六日、有警報、日降餘賊党数百人、取路於百村而来、其勢、如欲迫本城者。於是、我亦発兵、扼守衝路。而賊不敢迫城。然未確知其鋒之所向也、益厳兵備、以候其動静。其夜、又有報告、曰賊避城下之路、沿箒川而下。乃欲尾撃殲之、二十七日昧爽、潜兵而発。巳而聞賊既遠、即転路、自間道、進、要撃之片腐田邨。此日、又次郎、以軍監従軍。而賊未虞我兵之横撃、入村中民舎、傅餐而憩。而我兵、出於賊之不虞、発銃迫之、賊料不可免、突喊奮起、殊死而戦、其鋒甚鋭。於是、我兵、亦皆捨銃、短兵接戦。此時、又次郎、独身挺前、揮刀叱咤奮闘、大挫賊鋒、賊遂潰散。乃上邱、而少憩。賊之餘兵、望見之、知其巨帥也、発銃狙撃之、洞其胸。又次郎、大怒、欲逐斬銃者、而創劇、遂不能起。乃書其所常誦、明揚盛意詩、於懐紙、展諸前、載石其上、以備風、俯伏而死。時年三十。可謂能致身矣。豈不可惜哉。其詩云、浩気帰大虚、丹心照千古、平生未報恩、留作忠魂補。其志気凛然、臨死不乱、雖古烈丈夫、恐不能過焉。盖可以見、其平素所養矣。又次郎、諱忠順、姓丹治、氏阿久津、号澄淵。大参事忠義君之嫡男也。母印南氏、娶興野氏、而未有子。庁議、録其季弟鐶六、別賜秩俸、奉其祀、世世無絶、以酬其死節、且旌其忠烈也。今茲、明治庚午、値三周年忌辰、忠義君、嘱余文以誌墓。乃略書其平日行状之所聞見、及其戦之顛末、係之以詩、以換銘。詩曰、
大節巍然能致身、兼全忠孝有斯人、昊天罔極応無憾、一死顕揚君与親。
維時明治三歳庚午秋九月権大参事金枝健撰
事父母能竭其力、事君能致其 身。子夏氏、嘗難其人。夫、忠孝者、人人所由之路、自天子、以至庶人、莫不同然也。而能竭能致者、天下盖鮮矣。是、子夏、所以難其人之意也。本藩士阿久津又次郎、稟性頴敏、有気節。幼時従余学。余嘗講小学授生徒、又次郎亦与聞焉。毎聴忠孝節義之迹、慨然奮励、欽慕之情、顕於色。余常奇之。其平居、事父母、晨省昏定、以至凡百之使用、不憚労劬、怡顔承旨、一以愉親為念。及長、行益力焉。可謂能竭力矣。仕為側役、日夜尽心於職事。其保護幼主、至誠懇篤、雖游嬉戯謔之際、閑邪存誠、必以帰諸道為心、未嘗以主幼小、惰恭敬也。後兼戦士組頭、称頗得士心、明治紀元歳之戊辰、秋九月、奥羽、北越等之乱賊、勢蹙力索、皆納降於官軍。而餘党、散布於各所者、末悉平也。其二十六日、有警報、日降餘賊党数百人、取路於百村而来、其勢、如欲迫本城者。於是、我亦発兵、扼守衝路。而賊不敢迫城。然未確知其鋒之所向也、益厳兵備、以候其動静。其夜、又有報告、曰賊避城下之路、沿箒川而下。乃欲尾撃殲之、二十七日昧爽、潜兵而発。巳而聞賊既遠、即転路、自間道、進、要撃之片腐田邨。此日、又次郎、以軍監従軍。而賊未虞我兵之横撃、入村中民舎、傅餐而憩。而我兵、出於賊之不虞、発銃迫之、賊料不可免、突喊奮起、殊死而戦、其鋒甚鋭。於是、我兵、亦皆捨銃、短兵接戦。此時、又次郎、独身挺前、揮刀叱咤奮闘、大挫賊鋒、賊遂潰散。乃上邱、而少憩。賊之餘兵、望見之、知其巨帥也、発銃狙撃之、洞其胸。又次郎、大怒、欲逐斬銃者、而創劇、遂不能起。乃書其所常誦、明揚盛意詩、於懐紙、展諸前、載石其上、以備風、俯伏而死。時年三十。可謂能致身矣。豈不可惜哉。其詩云、浩気帰大虚、丹心照千古、平生未報恩、留作忠魂補。其志気凛然、臨死不乱、雖古烈丈夫、恐不能過焉。盖可以見、其平素所養矣。又次郎、諱忠順、姓丹治、氏阿久津、号澄淵。大参事忠義君之嫡男也。母印南氏、娶興野氏、而未有子。庁議、録其季弟鐶六、別賜秩俸、奉其祀、世世無絶、以酬其死節、且旌其忠烈也。今茲、明治庚午、値三周年忌辰、忠義君、嘱余文以誌墓。乃略書其平日行状之所聞見、及其戦之顛末、係之以詩、以換銘。詩曰、
大節巍然能致身、兼全忠孝有斯人、昊天罔極応無憾、一死顕揚君与親。
維時明治三歳庚午秋九月権大参事金枝健撰