第一節 大田原藩資料

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   維新当時本藩の状勢
    明治二十八年五月 日 大田原一清(龍城今昔第弐輯から)
 維新の大業は、実に振古未曽有の革命にして、本朝歴史の一大関鎖たり。然るに、当時此革命を企図し、及び助成したるものの境遇如何を、尋繹するときは後世徒に其成績を美観とし、偉勲として眩惑瞠若する斉輩か想像にも及ばざるもの、辛酸難苦を極めたりしことを、記憶せざるべからず。抑、天下の事は、一人若くは一局部の能く左右し得べきに非ずして、其主動者ありと雖も、受動者の之に応動することなからしめば、一人一部の徴動に止まり全局に及ぼすこと能はさるや明なり。慶応年間幕府政権を奉還し、遂に明治の中興を致したる所以のものも、論理上の観察を以てするときは、王室の政柄を幕府より返上したるまでにて、別言すれば、君家の臣僚に托したる委任を、合意上解除するに止まり、単に一時の改正として視るべきのみ。未た必ずしも革命の性質を具有せざるものの如しと雖、其実際を窺ふときは、一政府を顛覆して、更に一政府を組織したるは、掩ふべからさるの事歴にして、特に至難中の至難革命たる諸要素を、包含するを発見すべし。然らば、則此の際に処するの志士仁人が千難万艱を犯して、尽忠報国の誠を致したる事迹も、亦極めて複雑幽微の間に存在して、決して単純粗大のものにあらざることを、解するに足らん。我大田原藩の如き、下野北端にありて、奥羽咽喉の衝路に当り、而も一個極小の外藩にして、江戸幕下を距つること三十餘里、四周の境場悉く幕領、及び幕府譜代の諸藩にあらざるなく、加之、会津若松との距離僅かに二十餘里に過ぎず、是を以て、徳川氏が一旦朝譴を蒙り、会津其主謀を以て賊名を負ふに及びては、犬牙接壤の地、四隣殆ど敵国にあらさるものなきに至りしなり。此時や、天下繹騒、道路梗塞、上国の形勢、朝政の如何等、固より其真相を知るに由なく、道聴塗説、訛言百出人心の恟恟、停止する所を知らず。首鼠両端を持し、成敗を観望するの徒、亦少しとせず。一藩の意向を確立し、卓然勤王の義を唱ふること、蓋難事に属せり。第一、藩地の接壤不利なるあり。第二、藩力の微弱不利なるあり。第三、幕府との関係上不利なるあり。第四、朝廷の信用上不利なるあり。第五、藩主幼冲の不利なるあり。此五不利を排斥して方向を一定せんとす。迅速敏捷なること能はさるは、真に痛恨に堪へさるものあり。幸にして大義を唱ふるもの(甲)あり。以て藩論を定めたると身命を犠牲にするもの(乙)あり。以て藩力を陳ぶる等、僅に名分を誤らざるを得たるは、全く彼等が経営惨憺の大賚賜にして、後世忘るべからざるの偉烈なりとす。之を要するに、前来布陳する所の地位境遇にあり。所謂斉、楚の間に夾まるるの類たるを以て西国諸藩の如く、主動者たり、企図者たるにはあらざるべきも、其の受動者なり、助成者たるの行為に於て決して人後にあらさるべきは、篤く自ら信する所なり。但、辛苦艱難の程度に比例して有形上の功績、奕奕として表彰すべきものなきに至ては、万止むを得さるに坐するのみ。
 以上の状勢は独り然りとするのみならず、他藩亦或は之に類するものあらん。独り当年の一役に於て然りとするのみならず。古往今来、亦或は之に類するものあらん。世の歴史家たるもの、豈闡幽顕微の任務を尽竭せずして可ならんや。
国事に勤労したる者 (慶応三年乃至明治元年)
藩主幼冲の為名代として京師に出張し諸般尽瘁勤労したるもの
                               大田原住   大田原一学
藩主名代補助として京都に出張し本藩勤王の赤誠を表陳し又朝旨を奉躰して屡次意見を建議せし等奔走尽力したるもの
                               大田原住   金枝弥五左衛門
                               同      権田峰蔵
本藩四境防衛の任にあたり巡邏警戒概虚日なく或は進戦し或は退守し数回危難を犯したるもの
                               大田原住   藤田六郎
                               同      伊藤金右衛門
                               同      平野鐐之助
                               同      渡辺渡
                               同      北城鐐吉
                               大田原住   本多泰助
                               同      江連金三郎
国難に殉したる者(写真8)(慶応四年乃至明治元年)
賊軍大田原城襲撃の際挺身奮戦遂に陣歿したる者
                               大田原住   大田原鐵之進
                               同      早川雄太郎
                               同      久嶋惣太郎
                               同      栗田左次右衛門
                               宇津野村住  長岡傅四郎
                               同      森半兵衛
                               同      長岡彦右衛門


写真8 大田原護国神社境内にある
戊辰の役戦死者記念碑


裏面にある戦死者名の一部(上段)

会津攻撃の際進征軍に在りて田嶋附近に於て苦戦死したる者
                               大田原住   宇野良貞
                               同      江連半之助
                               同      蒲沢健次郎
                               同      渡辺久次郎
                               上横林村住  栗原四郎左衛門
                               上森林村住  熊久保傅右衛門
                               同      菊地孫右衛門
                               宇都野村住  江連重五郎
                               同      津久井作蔵
                               大田原住   住川酉之助
賊兵脱走の際尾撃隊に在り急追して敵の重囲中に陥り格闘戦死したる者
                               大田原住   阿久津又次郎

右は別紙状勢記述中(甲)若は(乙)に属するものなり而して各個録すべき事蹟の詳細は取調中に係れり。