一、黒羽藩転戦記

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 那北の戦雲はついに爆発した。官軍は宇都宮攻略後、那北に会軍の一部が出没するので、閏(うるう)四月十三日、薩・長・大垣・忍の兵をもって白河方面の敵状偵察をなし、その一部は閏(うるう)四月十六日大網(塩原)に会兵を破り、また同月二十二日に塩ケ崎(東那須)に、翌二十三日は板室温泉付近で会兵を撃じょうし、同日薩の別隊・長・大垣・忍の藩兵は関谷付近でこれまた会兵を撃破した。これより先五月十一日、白河口参謀より黒羽藩に至急出兵の命あり、続いて二十一日藩主増勤は藩士に対し白河口出兵の命を出した。
   隊長    五月女三左衛門
   軍監    大沼渉 安藤小太郎
   一番隊長  益子四郎
   二番隊長  渡辺福之進
   三番隊長  高橋亘理
   砲術長   稲沢常之助
   輜重長   瀬谷角之進
 閏(うるう)四月二十日会津兵は南下してついに白河城を占領した。白河は古来天険をもってなり軍事上極めて重要な拠点であった。閏(うるう)四月二十三日東山道参謀伊地知正治は大田原に到着し、薩・長・大垣・忍藩のわずかな兵力(約三百位)をもって、白河城を攻撃するため二十四日大田原を発して芦野に向かう。二十二日朝八時白河口官軍参謀からの飛報により、隊長五月女三左衛門、軍監大沼渉、安藤小太郎、および一番隊長益子四郎、二番隊長渡辺福之進、三番隊長高橋亘理は歩兵三小隊を率い、また砲兵隊長稲沢常之助は砲一門を引きいて、午後一時黒羽城を発して夕刻領内追分村へ到着、この日はここに宿陣し、翌二十四日旗宿に進軍し、薩・長・大垣・忍の兵と合す。そして二十五日未明白河南端において戦闘を開始したが、天険によった会津軍のため激戦数刻の後敗退の止むなきに至り、午前十一時ひとまず白坂芦野の間に引き返した。
 五月一日、兵を整えた官軍は、さらに薩の援兵隊(大山弥介の率いる大山砲隊)、および板垣退助の率いる土州兵を得て、第二次白河城攻撃の火蓋を切った。もちろんわが黒羽藩兵もこれに加わっている。この戦の激烈であったことは、「会津戊辰史」を借りれば「城中兵士多くは出でて戦い、留る者僅に三十余人と老幼婦女あるのみ。是において有志の士逆川(東白河郡社川村の大字)に進み出で、長州、土州、忍の兵と戦うの際、薩州、大垣、黒羽などの兵が横に襲い来りたれば、河岸の塁壁に拠り、暫く奪闘す。西軍突撃する者潮の如く、東軍衆寡敵せざるを知り、火を城に放ちて、釜子(西白河郡釜子村)に奔る。木村、小森の兵は須賀川に退き、仙台、相馬の兵は、共に笹川(安積郡永盛村の大字)に退き、相馬兵は遂に中村(相馬郡中村町)に帰る。」と、いかに激戦であったかが察知される。また黒羽藩戊辰戦史資料によれば、「五月朔日、官軍大挙白川城を攻む。賊の死傷積んで山をなす。午後二時頃終に陥落し、官軍同城を衛る。是れを以て奥羽征討の根拠と為す。」とある。まことに壮烈な攻防戦であったことが察せられる。その後五月二十五日、同二十七日、六月十二日と、奥羽軍は三回にわたって白河城奪還のために総攻撃を加えてきたが、いずれも官軍のために敗退して、ついにこの重要な拠点を失うことになった。
 白河城が全く官軍の手に帰し、板垣退助の率いる土佐藩兵をはじめ、援軍が続々と白河に集結したので、奥羽全土に対する大々的攻撃が開始された。即ち六月二十三日、棚倉城攻撃の議が決せられ、黒羽藩からも軍監大沼渉、安藤小太郎が出席して軍議に加わった。そして翌二十四日早朝白坂にあった黒羽藩は歩兵三小隊、砲二門を率いて出発、白河に進軍すると称して道を棚倉にとった。途中幡沢村に達した時、敵の哨兵驚いて警報を鳴らし棚倉街道の要所要所の賊軍に知らせたが応戦の暇なく退去。一方白河口から進軍した薩・長・土・大垣・忍の諸藩の兵は、金山の賊を破り一挙棚倉城に向かって進撃した。まずこれより兵を二手に分け、一つは本道よりし、一つは間道よりしたが、黒羽藩は薩、大垣の藩兵と共に間道より進んだ。道は狭くその上泥濘膝を没すという悪路で困難を極め、本隊より遅れること約一時間の後棚倉城下に達した。この時城兵はほとんど出陣していて留守、城主阿部豊後守は城中に火を放って逃走し、棚倉城はようやく官軍の手に帰した。
 棚倉落城後、館林藩兵一小隊を留めて棚倉を守らせ、七月二十四日白坂にあった彦根兵三小隊を加えて全軍石川村に向かって出発した。彦根兵は斥候となって先鋒となり、薩・長・大垣および土藩の兵を中心とし、輜重(しちょう)これにつづき、忍・館林および黒羽藩の兵は後詰となって午後一時石川村に着いた。そして当夜はここに泊って翌二十五日黎明石川村を発し、午後四時蓬田村に達した。その村は人家がまれで大兵が泊ることができないので、隣村の中津川、田母神の村々に分宿することになった。たまたま蓬田村には賊徒約八百ほど屯していたが、平に上陸した海軍が三春に進むと伝え聞いて、ことごとく退散したあとだった。
 二十六日、全軍蓬田村を発し、中津川で兵を二手に分け、一つは根本に向かい、一つは下枝に向かう。彦根兵先鋒となり、薩、長、土、大垣、忍、館林および黒羽藩の兵本道より、長兵の一部を前軍とし、土兵の一部を後軍として間道より進んで共に三春城に迫った。この時三春藩士河野広中は降服せんことを乞いて官軍を軍門に迎え恭順の意をのべ、藩主秋田万之助は降服の意を表し、また一封の嘆願書を提出した。ここにおいて三春は戦わずして官軍の手に帰したのである。
 二十七日正午、官軍三春を発し本宮に向かう。進んで逢隈(あぶくま)川に至る。敵兵河岸に堡塁を築いて防ぐ。川舟ことごとく前岸にあり、官軍手をこまねいてただ撃ちあうばかり、この時黒羽藩の一番隊長益子四郎、続いて二番隊長渡辺福之進水中にとびこみ、敵舟を奪って帰る。全軍漸く渡るを得る。そのため賊軍潰(かい)乱し、ついに本宮を略す。
 二本松落城の悲劇は、会津白虎隊の名と共に後世に伝わる美談である。二本松は名門丹羽氏の居城であった。仙、米二藩を中心とする奥羽連盟も次々と崩れていく時、盟約を固く守って会津と運命を共にしたのは、越後の長岡藩とこの二本松藩のみである。二本松攻防戦はわずか二時間余りといわれているが、その激烈さは想像に絶するものがあり、死傷者の数は白河攻略戦に匹敵すると。この戦黒羽藩は殿軍となったが、ただ一小隊だけ薩藩に所属して戦闘に参加している。奥州戦争記に、「二十九日攻二本松城我藩為殿分一小隊属薩先登交戦二時而城陥我藩生擒賊四名斃十一名我兵死者一名」と記されている。七月二十九日のことである。